HISTORICAL PERSON · 紀元前 700年(推定)没

テオポンポス (スパルタ王)

エウリュポン朝のスパルタ王で、在位は紀元前720年から675年。第一次メッセニア戦争でメッセニアと戦い、テュレア地方をめぐってアルゴスとも争った。

生涯
紀元前 700年(推定)没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

テオポンポスは、紀元前八世紀末から七世紀前半にかけてスパルタを治めた、エウリュポン朝の王である。在位は紀元前七二〇年から前六七五年とされる。父は先王ニカンドロスで、その跡を継いで王位に就いた。当時のスパルタでは二つの王家から一人ずつ王を出しており、テオポンポスと並んでアギス朝のポリュドロスが王を務めていた。治世の大きな出来事は第一次メッセニア戦争であり、二人の王はともにメッセニア軍との戦いに参加した。

戦争中の最初の会戦は、どちらの勝利ともならずに終わった。次の会戦でも勝敗は決しなかったが、戦場の各所では異なる展開となった。右翼を指揮していたテオポンポスは、メッセニア王エウパエスの率いる部隊に敗れて退いた。一方、左翼のポリュドロスは優勢に戦ったため、スパルタ軍全体の敗北は避けられた。この戦いの後、メッセニア側は内陸の町々を放棄し、イトメ山に防御を集中した。さらに数年後、スパルタ軍がイトメを攻めた際には、エウパエスがテオポンポスの親衛隊を襲ったが、自身が致命傷を負ったという。エウパエスの後にはアリストデモスがメッセニアの王となった。戦争は最終的にメッセニアの敗北に終わり、詩人テュルタイオスは、スパルタがメッセニアを得た功績をテオポンポスに帰している。

王としての活動には、スパルタの統治制度に関わる伝承もある。監督官であるエフォロイの制度は、この王の治世に導入されたとも、リュクルゴスによって以前に設けられたともいわれる。前者の説では、リュクルゴスの時代から百三十年後の創設だという。テオポンポスによる創設を伝える話では、監督官は王とともに国政を担い、二人の王にも匹敵する権限を与えられた。これを見た妻は、受け継いだ時よりも力の弱い王位を子供たちに残すことになると王を責めたという。王は、それによって王位がいっそう安全になるので、子供たちにはむしろ大きな力を残せるのだと答えたとされる。この言葉は、王権を制限することで、その存続を確かなものにするという考えを示している。また、スパルタの基本的な規定であるレトラに、民会の決定に対する長老会と王の拒否権を加えたとも伝えられる。

晩年にも対外的な争いは続き、年老いたテオポンポスの時代、スパルタはテュレア地方の領有をめぐってアルゴスと争った。この争いは、息子アルキダモスの死後の出来事とされる。王自身の死については異なる伝承があり、メッセニアの指導者アリストメネスに戦場で殺されたともいうが、スパルタ側では負傷しただけだとされた。捕虜となり、ゼウスへの犠牲として殺されたという話もあった。アリストメネスが王を殺した時期を、メッセニア王アリストデモスの死の少し前とする説に対し、パウサニアスは年代が合わないと考えた。テオポンポスは第一次メッセニア戦争の終結まで生きており、その勝利を得た王だとしたのである。王位継承にも複数の説があり、アルキダモスが父に先立って亡くなったため、孫ゼウクシデモス、あるいはひ孫アナクシダモスが継いだとされる一方、アナクサンドリダス一世を後継者とする伝承も残っている。アナクサンドリダス一世は、ゼウクシデモスの父にあたるともされる。

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