伝記
オルハン(1281年-1362年)は、オスマン帝国の第2代君主で、在位は1324年から1362年とされる。初代のオスマン1世の子である。その時代のオスマン帝国は、遊牧と略奪による集団から君侯国家へ移る転換期にあたり、実質的な建国者と評されることも多い。
即位前の経緯ははっきりしない。母は「オメル・ベイ」という人物の娘だが、この人物自体が経歴不詳である。即位の経緯については、兄弟のアラエッティンと後継の座を譲り合った末にオルハンが即位したという話と、父の死後に王子たちが争ったことをほのめかす話が伝わり、内容は正反対である。兄弟愛の逸話は王子たちの争いを糊塗するために創作された可能性があるとする研究者もいる。即位年は1324年と1326年の2説が有力で、父の存命中にすでに即位していたとする説もある。オスマンの集団は数百人規模の戦士集団で、指導者の選出には戦士たちの推戴が必要だった。オルハンは父の僚友たちに推されて即位し、父の遺志であるブルサ攻略を続けた。
1317年から父に軍の指揮権を委ねられ、ブルサ包囲の障害となる拠点を制圧していた。1326年4月6日にブルサの支配者を降して同地を征服し、首都と定めて父を埋葬した。続いて1331年にニカイア、1337年にニコメディアを征服した。1329年にはニカイアの包囲を解くため東ローマ帝国から2000の正規兵が送られたが、皇帝アンドロニコス3世の率いる東ローマ軍を破った。ニカイアの攻撃は苛烈で、攻略直後にオルハンと会ったイブン・バットゥータは、街が荒廃し人口が減った様子を『大旅行記』に記した。二重の城壁は破壊を免れ、今も往時の姿を留めている。この勝利は、辺境の軍事集団だった軍団が一侯国へ飛躍する契機になったとされる。1335年から1345年の間にはバルケスィルのカレスィ侯国を併合し、軽装艦船を持つ海軍をそのまま手に入れてバルカン進出の手段を得た。
東ローマ帝国の内紛では、ヨハネス6世に味方してその登極を助けた。1346年にはその娘テオドラを妻に迎え、バルカン半島に6000の兵を派遣した。この方面では長子スレイマンの活躍が大きかった。1352年から1353年の間に、援助の見返りとしてカリポリス付近の城砦を得た。1354年の大地震の後にはスレイマンがカリポリスなどマルマラ海沿岸を占領した。ヨハネス6世が返還と大金の支払いを申し出ても、オルハンは応じなかった。
統治面では、ブルサの東ローマの行政機構と行政官を受け継ぎ、外から招いたイスラム法学者を法官に任じた。1331年にはイズニクにオスマン帝国最初のメドレセを創設した。軍制では、遊牧民中心の軍団を君主直属の常備軍へ改める試みもあり、歩兵のヤヤと騎兵のミュセッレムが編成された。ただ成果は乏しく、両者は補助軍に格下げされた。一方、給与の代わりに略奪品を得る非正規騎兵のアクンジュは、バルカンでの領土拡大に大いに貢献した。1326年から1327年には独自の銀貨が鋳造され、アクチェ銀貨は17世紀まで基本の通貨単位となった。トルコの国定教科書は誠実な人格と信仰心を称え、救貧院の開設式で自らスープを配った逸話を紹介している。
没年は1359年から1362年の間と推定されている。後継者と目された長子スレイマンは鷹狩りの最中の事故で先に亡くなった。その後の継承ははっきりしないが、息子らの間の争いに勝った次子のムラトが帝位を継いだとみられる。
同じ年に亡くなった人物
- John III of Trebizond (1362年)
- ムハンマド6世 (ナスル朝) (1362年没)
- ルイージ・ディ・ドゥラッツォ (1362年没)
- インノケンティウス6世 (ローマ教皇) (1362年没)
- ジャック1世 (ラ・マルシュ伯) (1362年没)
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