伝記
紫式部は、平安時代中期の女房、作家、歌人である。『源氏物語』の作者とされ、日記に『紫式部日記』、家集に『紫式部集』を残した。『後拾遺和歌集』などに歌が入り、『中古三十六歌仙』『女房三十六歌仙』『百人一首』にも選ばれている。実名や正確な生没年は分かっておらず、おおよそ970年から978年の間に生まれたと考えられている。
父は越後守を務めた藤原為時、母は摂津守・藤原為信の娘で、母は早世したとされる。父方の曽祖父には藤原定方や藤原兼輔がおり、一族には文辞で知られた人が多く、為時も漢詩人、歌人として活動した。同母の兄弟に藤原惟規がいるほか、同母の姉もいた。為時は東宮時代の花山天皇の読書役を務め、984年の即位にともなって蔵人、式部大丞と出世した。だが2年後に天皇が寛和の変で出家・退位させられると散位となり、一家は不遇の時期を過ごした。為時は具平親王家の家司となり、996年にようやく越前国の受領となって、紫式部も約2年を越前で過ごした。幼いころから漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。
998年ごろ、親子ほども年の離れた又従兄妹で山城守の藤原宣孝と結婚し、999年に一女の賢子(大弐三位)を儲けた。賢子も『百人一首』に選ばれた歌人である。しかし結婚生活は長く続かず、1001年に宣孝と死別した。『紫式部集』には「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」という歌が収められ、その心情を詠んだとされる。
『源氏物語』の執筆時期は不明だが、のちに藤原道長に召し出され、1006年か1007年に、一条天皇の中宮で道長の長女である彰子に女房として仕えた。女房名は藤式部で、のちに「紫式部」と呼ばれたとされる。この名は、父為時の官職に由来するとも、兄弟惟規の官職に由来するともいわれ、「紫」は作中の紫の上にちなむと一般に考えられている。彰子の家庭教師の役も果たしたとされ、少なくとも1012年ごろまで仕えたようである。この間に大量の料紙を提供されたことから、『源氏物語』の執筆を依頼されたと考えるのが自然とされる。一条天皇が物語を聞いて作者を「日本紀をよく読み込んだ人に違いない」と褒め、「日本紀の御局」とあだ名されたという逸話もある。一方、道長と源倫子の結婚の際に倫子付きの女房として出仕した可能性を指摘する説もある。後宮内での序列は五、六番目と、出自に比べてきわめて好待遇だったともされる。村上天皇の皇子である具平親王は、為時やその兄の為頼と歌などで深く交わった人で、邸宅は道長や藤原行成も訪れる文人のサロンだった。『紫式部日記』には、道長が子の頼通と具平親王の姫君隆姫の結婚を、紫式部に心寄せのある家だとして相談する場面があり、その後に婚姻がまとまった。『源氏物語』の箒木三帖は具平親王家をモデルに書いたといわれ、親王は「光源氏」のモデルの一人ともされる。
没年は定説がなく、藤原実資の日記『小右記』に1013年に「越後守為時女」の女房が取り次ぎ役を務めた記事があり、これが確かな記録の最後とされてきた。そのため長和年間(1012年〜1016年)に没したとする見方が有力だった。しかしこれ以後の記録がないこともあって、1014年とする岡一男の説、1016年ごろとする与謝野晶子の説、1019年内とする萩谷朴や今井源衛の説、1031年とする説など、さまざまな説が出されている。
同じ年に亡くなった人物
- Stepanos Asoghik (1100年没)
- 赤染衛門 (1100年(推定))
- アルベリック (1100年代没)
- のっぽのトルケル (1100年(推定))
- カイドゥ・カン (1100年)
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