HISTORICAL PERSON · 1087年(推定)没

マフムード・カーシュガリー

カラハン朝の学者で、歴史上最古のアラビア語・テュルク語辞典『テュルク語集成』の著者。王位継承争いで父と近親者を毒殺され、各地のテュルク系民族の下を転々とした。

生涯
1087年(推定)没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

マフムード・カーシュガリーは、11世紀に中央アジアのカラハン朝で活動した学者である。歴史上最古のアラビア語・テュルク語の辞典『テュルク語集成(ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク)』を著した人物として知られる。生年は分かっておらず、没年も1087年と推定されるものの確かではない。

カシュガルで生まれたが、その生涯に関する詳しい記録は残されていない。東カラハン朝の君主ムハンマドが祖父だと考えられており、父のフサインはバルスハン地方の貴族で、のちにバルスハンからカシュガルへ移住した。バルスハンは現在のキルギスのイシク・クル湖の南東にあった町で、父はその町の長であり、君主の一族と関係があったともいわれる。マフムードは王位継承をめぐる争いのなかで父と近親者を毒殺され、近隣のテュルク系の民のもとを転々とした。東ローマ帝国の国境地帯から中国の辺境に至る地域を巡り歩いたのち、アッバース朝の首都バグダードを訪れたという。

バグダードで5年をかけて辞典を編纂し、1077年(1083年ともいう)に、カリフのムクタディーへ献呈した。編纂の時期を1072年から1074年とする説もある。辞典は、テュルク人の新たな同盟者となったアッバース朝のアラブ人に使われることを想定して作られたという。この辞典は、古いテュルク語の詩を四行詩の形で収め、戦いや狩り、哀悼、恋、自然、格言といった主題ごとに整理されている。テュルク諸民族の居住地を示した最初の地図とされるものも含まれ、現在はイスタンブールの国立図書館にある。ほかに文法書『チュルク語文法宝典』も著したが、散逸した。彼はテュルク諸語の単一性と純粋さを重んじ、遊牧の民を都市の住民より優れたものと考えたとされる。同時代のテュルク語話者の多くは、当時の都市と文学の言葉だったタジク語(ペルシア語系)も話していた。また辞典では、語の用例として諺や詩をしばしば引いた。なかにはホータン王国の征服を詠んだ詩もあり、仏教徒のウイグル人に対しては敵意をあらわにして、「犬」などと呼んだ箇所もある。

原本の写本はアッバース朝の滅亡後にエジプト・シリアのマムルーク朝の支配地へ移され、早くとも1266年に写しが作られた。写本は何度か持ち主を変え、マムルーク朝の滅亡後にイスタンブールへ渡り、古書店に並んだ。これを買い取った蔵書家アリー・エミリーが、1917年から1919年の間に3巻本として活字で出版した。それまでこの辞典と著者の存在は長く忘れられていたが、出版を機に注目され、トルコ語、ウズベク語、現代ウイグル語、英語に訳された。

没年についても、1102年に97歳でウパールで亡くなり、そこに葬られたとする説がある。1982年末から翌年にかけて、カシュガルの南西約45キロのウパールで、それまで別人の墓とされていた墓廟が彼の墓だと判明したとされ、新疆ウイグル自治区の政府も公式に承認して新しい墓廟が建てられた。ただしこの墓の真偽には疑問も出されており、没年は不明だとする研究者もいる。1981年から1984年にかけて辞典の現代ウイグル語版が出版され、1994年にはウイグル族の作家が生涯を題材にした歴史小説を発表した。ウイグル、キルギス、ウズベクの各民族がそれぞれ自民族の人物として扱い、キルギスのビシュケクには彼の名を冠した大学ができた。2008年にはユネスコが彼を記念する国際年に定めた。

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