伝記
カール・アレクサンダー・ミュラーは、1927年4月20日にスイスのバーゼルで生まれ、2023年1月9日にチューリッヒで95歳で没した物理学者である。父はパウル・ルドルフ・ミュラー、母はイルマ・ファインバウムといい、母はユダヤ人だった。生後まもなく、音楽を学んでいた父に伴ってオーストリアのザルツブルクへ移り、その後は母とともに母方の祖父母の住むドルナッハへ、さらにイタリア語圏のルガーノへ移って、イタリア語を流暢に話すようになった。母は彼が11歳のときに亡くなっている。
1938年から1945年まで、東部のシールスにある福音派の学校で学んで大学入学資格を得た。その後、スイス連邦工科大学チューリッヒ校の物理・数学科に進み、ヴォルフガング・パウリの講義に深い感銘を受けたという。1952年に卒業資格を取って1年間働き、再び同大学に戻って博士課程に進み、1957年末に論文を提出した。卒業研究では、G・ブッシュのもとで半金属である灰色すずのホール効果を扱った。学位取得までの間には、大学の産業研究部門で大型表示装置の研究にも1年携わっている。1956年の春にインゲボルク・マリー・ルイーゼ・ヴィンクラーと結婚し、1957年に息子エリック、1960年に娘シルビアが生まれた。
1958年に学位を取ると、バテル記念研究所で磁気共鳴のグループを率い、同じ時期にチューリッヒ大学の講師となった。1963年にはリュシュリコンにあるIBMチューリッヒ研究所の研究員となり、退職までそこで過ごした。チューリッヒ大学との関係も保ち、1970年に同大学の教授に任じられ、1982年にはIBMフェローとなった。IBMでの研究は、およそ15年にわたりチタン酸ストロンチウムと関連するペロブスカイト化合物を中心とし、光による色の変化、化学結合、強誘電性、構造相転移の臨界現象などを調べた。
1980年代の初めから、より高い温度で超伝導を示す物質の探索を始めた。当時知られていた最高の臨界温度は約23ケルビン(摂氏マイナス250度)で、金属系のゲルマニウムとニオブの化合物がそれにあたる。1983年にゲオルク・ベドノルツをIBMに迎え、酸化物を系統的に調べた。ミュラーの着想を知る専門家たちは、それを突拍子もないと見ていたという。1986年、二人はランタン、バリウム、銅の酸化物で35ケルビン(摂氏マイナス238度)の臨界温度を実現した。臨界温度は1911年の11ケルビンから75年かけて23ケルビンまで上がったところで13年間とどまっており、35ケルビンは当時の常識からすれば破格の高さだった。成果は1986年6月号の物理学の専門誌に報告され、同年のうちに東京大学の田中昭二、次いでヒューストン大学のポール・チューが、それぞれ独立に確認した。数か月後にチューは93ケルビンでの超伝導を達成し、研究者の関心は爆発的に高まった。1987年の「物理学のウッドストック」とも呼ばれた集会では、ミュラーも主要な講演者を務めた。1年足らずのうちに、臨界温度が100ケルビンに近い材料が見つかっている。
1987年、ミュラーとベドノルツはノーベル物理学賞を共同で受けた。発見から受賞までの期間は、科学分野のノーベル賞でもっとも短かったとされる。同じ1987年にはヴィルヘルム・エクスナー・メダルとフリッツ・ロンドン記念賞、1988年には欧州物理学会の欧州物理学賞とジェームス・C・マックグラディ新材料賞も受けた。
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- ロルフ・ハリス (2023年没)
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