伝記
カール・グスタフ・ユングは、1875年7月26日、スイスのボーデン湖畔のケスヴィルで、プロテスタント(改革派)の牧師の家に生まれた精神科医・心理学者である。父パウルは教会牧師で、母方の祖父も優れた神学者だった。父方の祖父は同姓同名の医師で、バーゼル大学の学長を務め、ゲーテの私生児だという伝説があった。ユングは医学と宗教学を家族の背景に持っていた。少年期は内面に深く注意を向け、善と悪、神と人間についての思索に没頭した。1886年にバーゼルの上級ギムナジウムに入り、母の勧めで『ファウスト』を必読書とした。1895年にバーゼル大学医学部に入学し、ゲーテやカント、ニーチェの著作に感銘を受けた。牧師の職を継ぐことは望まず、クラフト=エビングの影響で精神医学を学んだ。1896年に父を亡くして学費の工面に苦労し、卒業後に病院に勤めたのも、資金を得るためという面があるとされる。1900年7月にバーゼル大学を卒業した。
1901年から、チューリヒ大学精神科の病院ブルクヘルツリで、オイゲン・ブロイラーのもとで助手を務めた。患者を人格として尊敬するブロイラーのもとで、ユングも「精神病患者に見出すものは、新しいものでも未知のものでもなく、自分自身の存在基盤に出会うのだ」と述べるほど、真摯に患者と向き合った。1902年には霊媒現象を考察した学位論文を書き、同年秋から1903年にかけてパリに留学して、ピエール・ジャネに学んだ。1905年に言語連想法の研究が認められて医長となり、チューリヒ大学の私講師にもなった。1906年に『早発性痴呆の心理』を発表し、フロイトに論文集を送って文通が始まった。1907年に初めて対面して親交を深め、フロイトはユングを後継者に擬した。1909年にはクラーク大学で講演するフロイトに同行して渡米し、自身も講演した。同年、大学を離れて個人開業を始めた。1911年には国際精神分析協会が設立されて初代会長となったが、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったためともいわれる。
しかし神話研究を進めるうちにフロイトとの理論的な違いが現れ、1914年に協会を辞して袂を分かち、大学の職も辞した。決別の後は、ユング自身が「方向喪失の状態」と呼ぶ、精神病すれすれの危機的な状態に陥った。『自伝』には、洪水が北ヨーロッパを血の海にする幻覚を見たことなどが記されている。精神分析の運動から離れ、1916年には石油王ロックフェラーの四女の助力で「心理学クラブ」を設立し、分析心理学の確立に努めた。1921年に代表作『心理学的類型』を刊行し、1922年にはボーリンゲンの土地に塔の建設を始め、この作業が精神的な不調を安定させたと語っている。1928年に中国の錬金術文献のドイツ語訳を入手して曼荼羅に熱中し、1929年に注釈つきで『黄金の華の秘密』を出版した。
1933年からは、アスコナのエラノス会議で主導的な役割を果たし、鈴木大拙やミルチャ・エリアーデらと親交を結んだ。1948年にはチューリヒにユング研究所を設立し、ユング派臨床心理学の基礎を築いた。1946年の『転移の心理学』、1951年の『アイオーン』、1955年と1956年の『結合の神秘』など、70歳を過ぎてからも著作を続けた。1961年6月6日に亡くなり、チューリヒ州のキュスナハト改革派教会に葬られた。スイスでは晩年のユングは気味悪がられたが、世界的には精神病の理解に一石を投じた人物として評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- エミリー・グリーン・ボルチ (1961年没)
- ベンジャミン・アダムス (1961年没)
- ダシール・ハメット (1961年没)
- ボリス・ヴィリキツキー (1961年没)
- エーロ・サーリネン (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァルター・ハイトラー (1981年没)
- ヨーゼフ・ルートヴィヒ・ラーベ (1859年没)
- ハンス・ゲオルク・ネーゲリ (1836年没)
- エトヴィン・フィッシャー (1960年没)
- ヘルマン・ゲッツ (1876年没)