HISTORICAL PERSON · 2023年没

ヴォルフガング・ショイブレ

ドイツの政治家。コール内閣とメルケル内閣で内相や財務相を歴任し、党首も務め、2017年から2021年まで連邦議会議長を務めた。

生涯
2023年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / オッフェンブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(フライブルク・イム・ブライスガウ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ヴォルフガング・ショイブレは、1942年9月18日にフライブルクで生まれ、2023年12月26日に没したドイツの政治家である。財務相、内相、キリスト教民主同盟(CDU)党首などを歴任し、2017年から2021年まで連邦議会議長を務めた。連邦議会議員としての在職は半世紀に及び、ドイツ連邦議会史上最長とされる。

1961年にアビトゥーアに合格し、フライブルク大学とハンブルク大学で法学と経済学を学んだ。1966年に第一次法曹試験、1970年に第二次法曹試験に合格し、翌年に法学博士号を取得している。バーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働いたのち、1978年から1984年までオッフェンブルクで弁護士を務めた。弟のトーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州の内相を務めた。経済学者の夫人との間に四人の子をもうけている。フライブルク大学などから名誉博士号も授与された。政治との関わりは1961年にCDUの青年部に参加したことに始まり、1965年に党員となって、1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務めた。1972年に連邦議会に初当選し、1981年から1984年まで院内総務を務めた。

1984年、第2次コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣した。1987年には東ドイツのホーネッカー国家評議会議長による西ドイツ訪問の交渉責任者となり、1989年4月から内相に転じた。1990年の東西ドイツ再統一条約交渉には西ドイツ側代表として加わり、同年8月31日に調印した。ところが同年12月、連邦議会選挙戦のさなかに精神病の男性から背後を銃撃されて脊髄に重傷を負い、命は取り留めたものの下半身麻痺となって、以後は車椅子で暮らした。1991年にはCDU・CSU連邦議会議員団長となり、首都をボンからベルリンに戻す決定では、その国会演説が大きな役割を果たしたとされる。

コールの後継者と見なされ、1997年に後継党首に指名されたが、コールが党首に留まる意向を示し続けるなか、1998年の選挙でCDUは大敗して政権を失った。コールの辞任直後にショイブレは党首に就いた。しかし翌年、1994年に武器商人から10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが2000年1月に認めて謝罪し、2月に党首を辞任して、後任には幹事長のアンゲラ・メルケルが選ばれた。汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。2001年のベルリン市長選では候補に推す声もあったが、地元議員に拒まれた。

2005年11月のメルケル政権成立で14年ぶりに内相となり、対テロ戦争を想定して国内の治安維持に連邦軍を出動できるようにする憲法改正などを主張して、強硬な姿勢を指摘された。テロ危険人物の収容施設の設置も提案し、野党のみならず連立相手のSPDからも強い反対を受けた。2017年1月には、2015年からの難民受け入れ政策について「私たち政治家は人間であり、誤りを犯した」と述べ、失敗だったとの認識を示した。2009年の選挙後は財務相に転じ、第3次メルケル内閣でも留任した。ユーロ圏のソブリン危機のなかで共同債には各国の財政規律強化が先だとして否定的な見解を示した。2017年の総選挙でもオッフェンブルク選挙区で48.1%の票を得て当選し、10月24日に連邦議会議長に選出されて財務相を退いた。2023年12月26日の夜、自宅で死去した。81歳であった。

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