伝記
ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーは、1923年5月27日にドイツのフュルトでユダヤ系の家庭に生まれ、2023年11月29日に没したアメリカ合衆国の国際政治学者、外交家である。本来の姓名はハインツ・アルフレート・キーシンガーといい、父ルイスは女子高で歴史と地理を教え、母パウラは富裕な家畜業者の娘だった。弟ヴァルターと幸福な少年時代を送ったが、1933年にナチ党が権力を握ると運命は一変し、一家は1938年に米国へ移住した。
移住後はジョージ・ワシントン高校に通い、後半の2年間は夜間クラスで学びながら昼は髭そり用ブラシの工場で働いて家計を助けた。卒業後も働きつつニューヨーク市立大学シティカレッジにパートタイムで通い、会計学で優秀な成績を収めた。1943年に帰化し、学業を中断して陸軍に入隊すると、ドイツ語の能力を生かして対諜報部隊の軍曹としてヨーロッパ戦線で従軍した。のちにCIAとなるOSSに配属されたとされる。帰国後の1947年にハーバード大学へ入学し、1950年に最優等で卒業、1952年に修士、1954年にはウィーン体制を論じた研究で博士の学位を得た。この論文は、メッテルニヒやカースルレーらが敗れたフランスに懲罰よりも力の均衡の回復を求めたことが、その後の長い平和を支えたと論じている。
大学院生のころにはサマー・セミナーの幹事役を務めて人脈を築いた。参加者には中曽根康弘らもいた。1951年には日米学生会議にも参加している。のちに外交問題評議会を通じて政策提言を始めた。アイゼンハワー政権の大量報復戦略を批判し、核兵器と通常兵器を段階的に用いる制限戦争を主張した。ケネディ政権では顧問として関わったが、1961年11月に辞職している。1960年代半ばには南ベトナムのサイゴンを3回訪れた。ネルソン・ロックフェラーを支援していたが、1968年の大統領選で当選したニクソンに直接誘われ、国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権に入った。国家安全保障会議に外交政策の決定権を集め、ロジャーズ国務長官を重要な外交から外したとされる。NSCのスタッフには若手の外交官や軍将校、国際政治学者を集め、アンソニー・レイクやブレント・スコウクロフトらもその中にいた。
1971年7月と10月には密使として極秘に中国を訪れ、周恩来首相と会談して米中和解への道を開き、翌1972年2月のニクソン訪中と上海での共同コミュニケにつなげた。ソ連とは第一次戦略兵器制限条約を結ぶなど緊張緩和を進め、ベトナム戦争では1973年にパリ協定が調印されて終結への道筋がついた。この功績でノーベル平和賞を受けたが、受賞は議論を呼び、同じく交渉に当たった北ベトナムのレ・ドク・トは辞退した。第四次中東戦争後にはアラブとイスラエルの間を往復するシャトル外交を行い、エジプトのサダト政権を親米化させたとされる。
一方で批判も多く、ラオスやカンボジアへの秘密爆撃を指示したこと、バングラデシュの虐殺を黙殺しパキスタンを支援したことなどが問われた。チリのクーデター後の軍事政権による弾圧や、インドネシアの東ティモール侵攻を推進または容認したという批判もある。力の均衡と国益を重んじるリアリズムの擁護者として知られる。ニクソン辞任後はフォード政権でも留任したが、1977年のカーター政権発足で要職を退き、その後も晩年まで外交について発言と助言、著述を続けた。
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