HISTORICAL PERSON · 1942年没

ブロニスワフ・マリノフスキ

ポーランド出身のイギリスの人類学者。クラクフに生まれ、ヤギェウォ大学で数学と物理学を学び、ライプツィヒでヴントの民族心理学に影響を受けて人類学へ関心を移した。

生涯
1942年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / ニュー・ヘイヴン)
出生地
ポーランド共和国(クラクフ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

ブロニスワフ・カスペル・マリノフスキは、1884年4月7日に生まれ、1942年5月16日に没したポーランド出身のイギリスの人類学者である。

オーストリア=ハンガリー帝国領だったクラクフに、貴族の家系の子として生まれた。父ルツィアンはヤギェウォ大学のスラヴ文献学の教授で、母は地主の家の娘であった。幼い頃に父が亡くなり、母との2人暮らしをおくった。子供の頃は病弱で、しばしば健康を害したが、学業では抜きん出ていた。1902年に中等学校の卒業試験に優等で合格し、同年、ヤギェウォ大学で数学と物理学を専攻した。大学在学中に重い病にかかり、結核の可能性もあったが、療養するうちに哲学と教育の講義を通じて社会科学へと関心が移った。1908年に学位を取得し、論文の題は「思考経済の原理について」であった。学生の頃から外国への旅に関心があり、フィンランドやイタリア、カナリア諸島、西アジア、北アフリカなどを訪れたが、旅の一部は健康上の理由による。その後、ライプツィヒ大学で2年ほど学び、経済学者ビューヒャーや心理学者ヴィルヘルム・ヴントの民族心理学に影響を受けた。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』を読んで人類学者になることを決意し、当時の人類学でもっとも有名だったイギリスへの渡航を決めた。1910年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類学を研究した。

1911年にポーランド語で最初の学術論文を発表し、1913年にはアボリジニについての文献研究を『オーストラリア・アボリジニの家族』として刊行した。1914年、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチとともにオーストラリアへ向かったが、同年に第一次世界大戦が勃発した。オーストリア国籍だったマリノフスキはイギリス領内で敵国人扱いされ、出国が不可能になった。それでもパプアニューギニアに行くことは可能だったため、まずマイルー島に渡り、次にニューギニア島東沖のトロブリアンド諸島でフィールドワークに取り掛かった。こうして長期にわたり現地の人々と行動を共にして、生活を詳細に観察したことで、人類学に参与観察と呼ばれる研究手法が初めて導入された。トロブリアンド諸島での調査の成果は、1922年に主著『西太平洋の遠洋航海者』として発表された。この本でマリノフスキは、島と島の間で行われる腕輪や首飾りの交易であるクラを分析し、クラが経済的な交換だけでなく、島と島を結ぶ社会秩序の形成と持続の機能も果たす儀礼的な制度であることを明らかにした。

1919年にメルボルンへ帰り、化学者の娘エルシー・メーソンと結婚した。1924年からロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで人類学の講座を担当し、1927年に主任教授に就任した。彼が文化を捉える態度は、進化主義的な人類学と区別して機能主義人類学と呼ばれ、現存する文化を、相互に関係して働く諸要素の集合体として捉える。1934年にはラドクリフ=ブラウンら若い人類学者とアフリカ総合研究プロジェクトを立ち上げた。ジョモ・ケニヤッタは1935年から彼の指導の下で学び、著書の序文をマリノフスキが書いた。第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ合衆国に定住し、イェール大学の客員教授となり、1941年から42年にはメキシコのオアハカ州を調査した。1942年にニューヘイブンで死去し、没後に夫人が編集刊行した『マリノフスキー日記』により、フィールドにおける信頼関係の神話が虚説であることが明らかにされた。

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