伝記
ヘレン・アダムス・ケラーは、1880年6月27日にアメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで生まれた、作家であり、障害者の権利の擁護者、政治活動家、講演家である。父アーサー・ケラーは、スイスのドイツ語圏から移住した家の息子で、南北戦争当時は南軍の大尉だった。母ケイト・アダムスの父は南軍の准将で、両親ともに南部の名家の出身であった。1882年、1歳半のとき、高熱に伴う髄膜炎にかかり、一命は取り留めたものの、視力と聴力を失い、話すこともできなくなった。しつけを受けられない状態となり、非常にわがままに育ったという。
1887年、7歳のとき、両親は電話の発明者として知られるアレクサンダー・グラハム・ベルを訪ね、ベルの紹介でパーキンス盲学校の校長に手紙を出し、家庭教師の派遣を求めた。3月3日に派遣されてきたのが、同校を優秀な成績で卒業した20歳のアン・サリヴァンである。サリヴァンは小さい頃から弱視で、その経験を活かして、ケラーに「しつけ」と指文字、言葉を教えた。最初は、強引なしつけの教え方に父が憤慨し、解雇を考えたという。おかげでケラーは話すことができるようになった。サリヴァンは約50年にわたり、よき教師、よき友人としてケラーを支えた。1888年からパーキンス盲学校に通い、9歳のときには聾学校の校長から発声法を教わった。1894年にニューヨークの聾学校に入って発声を学び、1897年には、サリヴァンが校長と教育方針をめぐって衝突したため、女学院を退学し、もう1人の家庭教師の手を借りて勉強を続けた。1900年10月、ラドクリフ・カレッジに入学し、1904年に卒業して、バチェラー・オブ・アーツの称号を得た。盲ろう者として初めてである。
1902年に自伝『わたしの生涯』を執筆し、新聞に連載して、翌年に出版した。この自伝は、舞台劇、さらに映画『奇跡の人』に翻案された。1909年にアメリカ社会党に入党し、婦人参政権運動、産児制限運動、公民権運動など多くの運動に参加した。男女同権論者として、若年労働や死刑制度、第一次世界大戦の殺戮にも反対し、アメリカ自由人権協会の創立会員でもあった。1924年から1968年までアメリカ盲人財団に勤め、各地で講演し、世界35か国へ旅して視覚障害者を支持した。1936年10月20日にサリヴァンが死去した。1946年にはヨーロッパを訪問中に、住宅が全焼し、原稿その他の所有物をほとんど失った。
日本との縁は深く、少女時代に、渡米留学していた石井亮一と会ったのが、初めて会った日本人だったとされる。幼少時は、同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したと言い、1937年4月に東京の温故学会を訪れて、保己一の座像に触れた。サリヴァンが亡くなる前に、来日をためらうケラーに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという。1937年4月15日に横浜港に着き、埠頭で財布を盗まれたが、報道されると全国から手紙や現金が寄せられ、見舞金を社会事業に寄付して、日本の障害者に目を向けてほしいと声明を出した。昭和天皇にも拝謁し、8月上旬まで各地を回り、秋田では秋田犬を贈られた。1948年と1955年にも来日している。1968年6月1日、コネチカット州イーストンの自宅で老衰のため死去した。ワシントン大聖堂で葬儀が行われ、サリヴァンらとともに地下礼拝堂の納骨堂に葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレート・ボイムラー (1968年没)
- ハロルド・バブコック (1968年没)
- Maurice Larrouy (1968年没)
- セルゲイ・ベルンシュテイン (1968年没)
- レオ・セクストン (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- ウォレス・スティーヴンズ (1955年没)
- ウォーレン・ウィーバー (1978年没)
- ベンジャミン・ウォーフ (1941年没)
- アリス・ハミルトン (1970年没)
- ダン・ハートマン (1994年没)