伝記
バーバラ・ウォルターズは、アメリカのテレビ・ジャーナリストで、作家、テレビ司会者である。1929年9月25日、ボストンに生まれた。父ルー・ウォルターズ(出生名ルイス・エイブラハムズ)と母ディナはともにユダヤ人で、祖先は東ヨーロッパのロシア帝国からの亡命者だったとされる。父はニューヨークでナイトクラブを開き、ブロードウェイのプロデューサーも務めたが、ショービジネスの浮き沈みを何度も経験した。仕事が順調なときは、幼い娘に自分が手がける作品のリハーサルを見学させ、女優やダンサーたちは彼女を可愛がった。若いうちに父はナイトクラブを廃業し、住まいのペントハウスも失った。1944年には兄弟のバートンが肺炎で亡くなり、姉のジャクリンは健康に障害を抱えて生まれ、1985年に卵巣腫瘍で亡くなっている。
各地の学校に通ったのち、1951年にサラ・ローレンス大学を卒業して英文学士を取得した。小さな広告会社に1年ほど勤め、NBC系列のニューヨーク局で広報と報道記者の職に就いた。1953年には子供番組の製作を手がけ、その後もいくつかの番組のプロデューサーや、1955年にはCBSの番組の脚本家を務めた。1961年にNBCの『ザ・トゥデイ・ショー』に作家兼調査員として加わり、まもなく軽い話題や気象情報を届ける「トゥデイ・ガール」としてレギュラー出演するようになった。当時は女性が深刻なニュースを報じることなど誰も考えなかったと、自伝で語っている。やがて自分のリポートやインタビューを持つようになり、司会のヒュー・ダウンズと強い結びつきを築いた。1971年にダウンズが降板した際、後任となったのはフランク・マギーで、給料はウォルターズの倍だった。マギーは共同でのインタビューを断ったともされる。1974年にマギーが亡くなると、NBCは公式にウォルターズを初の女性共同司会者に任命した。
2年後の1976年には、ABCのニュース番組でハリー・リーゾナーとともにアンカーを務め、史上初の女性アンカーとなった。ただし、リーゾナーは共同司会者を持つことを快く思わず、二人の関係は困難だったという。1979年からは、ABCのニュースマガジン『20/20』の共同司会者兼プロデューサーとして、再びダウンズと共演した。1976年のアメリカ大統領選挙では、ジミー・カーターとジェラルド・フォードによる三回目で最後の討論会の司会に選ばれ、1984年にも大統領選の討論会で司会を務めた。
インタビューの名手として知られ、1977年11月にはエジプト大統領サーダートとイスラエル首相ベギンの共同インタビューを実現した。ほかにもエリツィン、プーチン、江沢民、サッチャー、カストロ、インディラ・ガンディー、ハヴェル、カダフィ、チャベス、アサドら各国の指導者や、マイケル・ジャクソン、キャサリン・ヘプバーン、ローレンス・オリヴィエなどにも話を聞いた。1977年にはキューバでカストロに二日間インタビューし、「自由」の意味で最も意見が合わなかったと番組を締めくくった。1999年3月3日に放送されたモニカ・ルインスキーとのインタビューは、視聴者7,400万人という番組史上最高を記録した。1996年には『TVガイド』誌が選ぶ「史上最も偉大なテレビスター」の第34位となった。
1997年からは昼のトーク番組『ザ・ビュー』の司会と製作を務め、2014年5月に『ABCニュース』と『ザ・ビュー』の司会からの降板を発表した。2022年12月30日に亡くなった。
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