伝記
ロバート・フックは、イギリスの自然哲学者であり、建築家、博物学者、生物学者でもある。1635年7月28日(旧暦7月18日)に生まれ、1703年3月3日に没した。弾性に関するフックの法則、『顕微鏡図譜』、生体の最小単位を細胞と名付けたことで知られ、実験と理論の両面から科学革命に重要な役割を果たした。成人後の人生は3つの期間に分けられる。当初は貧しいが優秀な研究者で、その後経済的に成功し、1666年のロンドン大火では復興に大きく貢献した。しかし晩年は気難しくなり、さまざまな論争に首をつっこんだ。歴史に名があまり残らなかったのは、この晩年のふるまいが災いしたとされる。
ワイト島のフレッシュウォーターに生まれ、父は英国国教会の聖職者だった。兄2人も聖職者となり、ロバートも当然その道を期待されたが、体が弱かったため、父が自宅で教えた。幼いころから観察を好み、機械や製図に惹かれ、真鍮の時計を分解して木で複製を作ると、それが十分に動いたという。1648年に父が亡くなり、徒弟修業のための40ポンドの遺産を手にしてロンドンに出た。しかしすぐに優秀さを見出され、リチャード・バズビーのウェストミンスター・スクールに入った。間もなくラテン語とギリシア語を習得し、ヘブライ語も学び、ユークリッドの『原論』も修めた。ここで、生涯の研究対象となる力学に出会ったという。
1653年にオックスフォード大学クライスト・チャーチの聖歌隊に入り、医学者トーマス・ウィリスの化学助手となって賞賛された。さらに、ロバート・ボイルの助手を1655年ごろから1662年まで務め、空気ポンプの製作、操作、実演を担った。フックは目が鋭く、数学者としても優秀で、どちらもボイルに欠けていた資質だった。クリストファー・レンはこのころ知り合い、生涯の親友となった。1657年ごろからは振り子機構を改良し、経度の特定法を思いついて特許を取ろうとする中で、ぜんまいばねを使った懐中時計を発明した。だが特許を取らず、大きな富を得る機会を逃し、以後は発明について用心深くなった。
1660年に王立協会が創設され、1661年11月、満場一致でフックが実験監督に選ばれた。1665年には事務局長となり、自ら考案した実験や会員が示唆した実験を行った。犬を開胸した状態で生かして呼吸が肺への空気の出し入れであることを示し、落下実験や、各種の高度での気圧測定、最大61メートルの高さの振り子実験なども手がけた。1664年にはグレシャム大学の幾何学教授となり、1665年に『顕微鏡図譜』を出版した。ロンドン大火後は焼け跡のほぼ半分の測量を行い、格子状の街区にする再建案を提案したが、既存の道路を再建する案が採用された。望遠鏡で火星や木星の自転を観察し、化石を研究して進化論を唱えた初期の1人となった。重力が逆2乗の法則に従うことにほぼ気づいており、ニュートンがその考えを発展させたという。
特に晩年は短気で気位が高く、論争で相手を不快にさせた。死後に名声が落ちた原因は、一般にニュートンとの確執とされる。ニュートンは王立協会会長になると、フックの業績を覆い隠そうとし、唯一の肖像画を破棄したともいわれる。再評価は20世紀に入ってからで、今では当時の最も重要な科学者の1人と認められている。
同じ年に亡くなった人物
- 鉄仮面 (1703年没)
- サミュエル・ピープス (1703年没)
- サン=テヴルモン (1703年)
- ジョン・ウォリス (1703年没)
- トマス・キンゴ (1703年)
同じ地域に関係する人物
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- レオニード・クラーシン (1926年没)
- シェルイ・ティボール (1978年没)
- リチャード・ノーマン・ショウ (1912年没)
- ジェイムズ・ハミルトン (第4代ハミルトン公爵) (1712年没)