HISTORICAL PERSON · 1703年没

サミュエル・ピープス

17世紀イギリスの政治家・官僚・作家。王政復古後に海軍を統括して再建に手腕を発揮し「イギリス海軍の父」と呼ばれ、礼砲の最大発射数を21発と定めた。1660年からの詳細な日記でも知られる。

生涯
1703年没
死亡地
イギリス連邦(ランベス区 / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ロンドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ランベス区)

伝記

サミュエル・ピープスは、17世紀イギリスの政治家であり、官僚、作家である。1633年2月23日にロンドンで生まれ、1703年5月26日にクラパムで没した。王政復古の時流に乗り、一介の平民からイギリス海軍の最高の実力者にまで出世して、庶民院議員や王立協会会長も務めた。今日では詳細な日記を残した人物として知られるが、海軍再建に手腕を発揮した官僚としての業績も大きく、「イギリス海軍の父」とも呼ばれる。

ロンドンの仕立屋ジョン・ピープスと、マーガレット・カイトの子として、フリート街からほど近い場所に生まれた。最初はハンティンドンの文法学校に通い、そこには父のいとこでクロムウェルの副官だったエドワード・モンタギューが領地を持っていた。のちロンドンへ戻ってセント・ポール校に通い、16歳に満たないころ、学校をさぼってチャールズ1世の処刑を見に行ったらしい。1650年の春にジョージ・ダウニングの支援で進学の奨学金を得てケンブリッジ大学に行き、マグダレン・カレッジに奨学生として入って、1654年に学位を得た。その年の暮れか翌年のはじめに、ダウニングと、国務会議員となっていたモンタギューの二人に仕えた。モンタギューは彼の能力に目を留め、腹心として用いた。いとこで後援者でもあるモンタギューに知らせずに、フランスから亡命したプロテスタントの娘エリザベスと結婚した。

1660年、モンタギューは議会派の海上の将軍の一人だったが、地方に隠れていた。ピープスはロンドンに残り、議会の動きをモンタギューに報告していた。王政復古の動きが現れると、筆頭格のジョージ・マンク将軍が王党派に転じ、モンタギューに艦隊を率いて、亡命先のオランダにいる国王を迎えに行くよう命じた。情勢を知ったモンタギューは王党派につくことを決め、チャールズ2世を連れ帰った。この功でモンタギューは初代サンドウィッチ伯爵に叙せられ、ピープスもその推薦によって海軍委員会の長官に任命された。海軍委員会の長官となってからもモンタギュー家の執事の仕事を続け、役所の帰りにその経理を処理したという記述が日記にある。

すぐに海軍行政の仕事を覚えた。ほかの委員が元艦長の騎士ばかりだったのに対し、さまざまな職人の技術を理解しようと努め、建造中の船を見て回り、掛け算の表や海軍の用語を学び、天文学や科学にも親しんだ。そのため、蓄財に励んだにもかかわらず、英語圏では理想的な官僚の典型と見られている。1665年には王立協会のフェローに選ばれた。1669年に妻と休暇でフランスとオランダを旅したが、帰国して間もなく、妻はチフスで急逝した。1673年には海軍本部の書記官となり、1679年まで務めた。1684年にチャールズ2世がロード・ハイ・アドミラルとなると、その下で再び書記官に就き、1684年から1686年には王立協会の会長を務めた。1688年の名誉革命でジェームズ2世が亡命すると、翌年に公職を引退した。

書記官はロード・ハイ・アドミラルの秘書にあたる立場だったが、この職は名誉職で、実務は書記官が取り仕切った。海軍規定の作成にも尽力し、1676年には任官制度の改革案を示した。礼砲の最大発射数を21発と定めたのも、1675年に書記官だった彼が、経費節減のために行ったことである。

1660年から1669年の日記が遺されている。王政復古期の世相を描いた貴重な史料で、1665年のペストの流行や1666年のロンドン大火の記述もある。女性関係など都合の悪いことは外国語や暗号を用いて書いた。眼を痛め、日記は1669年でやめた。

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