HISTORICAL PERSON · 454年没

エラク

フン族の王でアッティラの長男。父の死後に帝国を分割統治したが、反旗を翻したゲルマン連合軍とのネダオの戦いで敗れ戦死し、フン族帝国崩壊を決定づけた。

生涯
454年没
死亡地
ローマ帝国(スレム郡 / パンノニア)
出生地
European Hun Empire
出典
世界地図
ローマ帝国(スレム郡)

伝記

エラクは、フン族の王である。生年は分からず、454年に没した。アッティラの長男で、母はクレカといい、アッティラの息子としてデンキジック、エルナックの二人の弟がいた。ほかにも王位を望んだ息子がいたかもしれないともいわれる。エラクという名は本名ではなく通称で、ハザール語やハンガリー語などにつながる古いテュルク系の言葉で、王子・支配者・王を意味する語に由来するとする学者が何人もいる。つまり名というより称号らしい。

448年か449年に、オネゲシウスがアッティラの長男とともに、スキタイ(あるいはフン族)系のアカテリ族のもとへ、同盟を結ぶための使者として送られた。この同盟が成り立つと、東ローマ皇帝テオドシウス2世は、アカテリ族の首長たちに贈り物をばらまいて、アッティラとの仲を裂こうとした。しかし贈り物は身分に応じて配られず、首長コウリダコスはこれを受け取らないばかりか、アッティラに通報した。コウリダコスは自分の領地で一族を治め続けたが、残りのアカテリ族はアッティラの支配下に置かれた。アッティラは長男をアカテリ族の王にしようとして、オネゲシウスを送ったのである。オネゲシウスがエラクを連れて戻ったとき、エラクは転んで右手を折っていたと伝わる。エラクはアカテリ族の王となったほか、ポントス海北岸のスキタイの地に住むほかの諸族も治めたという。

アッティラとの会見のようすも記録されている。オネゲシウスは王の寝椅子の右側の椅子に座り、その向かいの椅子にはアッティラのほかの二人の息子、デンキジックとエルナックが座っていた。長兄のエラクはアッティラの寝椅子に座っていたが、父に敬意を払い、近くではなく端に座って、地面に目を落としていたという。

453年にアッティラが死ぬと、彼が築いた帝国は崩れ、残った領土は息子のエラク、デンキジック、エルナックの三人が治めることになった。エラクの治世は短いものだった。アッティラのもとで奴隷のような扱いを受けていたとして、ゲピド族の王アルダリックに率いられたゲルマン諸族の連合が反旗を翻した。この奴隷的支配とは、貢納や兵役を指すと考えられている。戦いはパンノニアのネダオ川の近くで起こり、その場所はサヴァ川かその支流の河畔だったと考えられている。この戦いにはゴート族、ゲピド族、ルギ人、スエビ族、フン族、アラン人、ヘルール族など、アッティラが支配していたさまざまな部族が、敵味方に分かれて戦ったのである。思いがけず勝利を得たのはゲピド族で、アルダリックの軍は3万人近いフン族とその同盟軍を殺し、エラクも戦死した。

歴史家ヨルダネスによれば、弟たちはポントス海の岸に住み着いたゴート族を平定するために向かっており、その場にいなかった。エラクの死でフン族帝国の崩壊は決定的になり、多くの部族や町が使節を送って東ローマ皇帝マルキアヌスに服属した。ゲピド族が独立を取り戻すのを見たゴート族は、他人の土地を危険を冒して侵すより東ローマ帝国に土地を求めることを選び、パンノニアを得た。ただ独立の動きは急には進まず、すべての部族が自由になったわけでもなかった。フン族は、ドナウ川のスキタイ人と土地を争う戦いに戻り、エルナックはもっとも遠い小スキティアに居を移した。一部のフン族はダキア・リペンシスやモエシア、トラキアに残ったという。エラクのあとは、弟のデンキジックとエルナックが継いだ。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物