伝記
アッティラは、5世紀にヨーロッパ東部から中部へ広がる大帝国を築いたフン族の王である。406年ごろ、王ルーアの弟ムンズクの子として生まれたとされる。フン族の出自は詳しく分かっておらず、名前や風貌の伝承から、テュルク・モンゴル系の民族に属したと推測されている。フン族は370年にヨーロッパへ移住した騎馬弓射に長けた遊牧民で、4世紀末から東西ローマの領内にたびたび入り込み、撤退の代償として巨額の賠償金を得ていた。433年には西ローマの将軍アエティウスと取り引きし、兵力を提供する見返りにパンノニアなどの支配権を認められた。
434年にルーアが没すると、甥のアッティラは兄ブレダとともに王位を継いだ。翌435年にはマルゴスで東ローマ帝国の使節団と会見し、逃亡者の送還に加え、貢税を金700ローマ・ポンドに倍増させる有利な条約を結ばせた。436年にはブルグント王国を攻めて、グンダハール率いる軍を壊滅させている。440年にマルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いたと訴え、これを口実にドナウ川を渡ってイリュリアの諸都市を略奪した。443年の戦役ではナイススやセルディカを落とし、コンスタンティノープルの城壁の前まで迫って東ローマ軍を破った。皇帝テオドシウス2世は講和を求め、金6,000ローマ・ポンドの賠償を認めたうえ、貢税の年額も金2,100ローマ・ポンドに引き上げられた。445年ごろにブレダが死ぬと、アッティラが単独の王となる。ローマ側の史料には、弟が仕掛けた狩猟中の事故でブレダが殺されたという記述もある。
447年には再びバルカン半島へ侵攻し、ローマ軍を破ってトラキアまでを略奪した。449年、東ローマの使節に加わった歴史家プリスクスは、豪華な饗宴のなかでアッティラの食器だけが質素だったと記している。450年にはトゥールーズの西ゴート王国を攻める意向を示し、西ローマ皇帝と同盟を結んだ。西ローマの実力者アエティウスは少年期に人質としてフン族のもとで暮らした経験があり、その後もフン族と良好な関係を保っていた。同年7月に東ローマ皇帝が亡くなり、後を継いだマルキアヌスが貢税の支払いを止めると、アッティラは西へ目を向けた。きっかけになったのは、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアが指輪を添えて助けを求めてきたことである。彼はこれを求婚と解釈して、西ローマ帝国の半分を持参金として要求した。
451年、従属する諸族を率いてガリアに侵入し、歴史家ヨルダネスによれば50万人を率いたというが、この数字は誇張とされる。同年4月にメスを占領し、6月にはオルレアンを包囲した。しかしアエティウスが西ゴート王テオドリック1世らとの連合軍を組み、フン族を追ってカタラウヌムで会戦する。6月20日の戦いは、連合軍にとっても損害の多い勝利で、アッティラは撤退したが、テオドリックが戦死してアエティウスには追撃の余力がなかった。翌452年、北イタリアへ侵攻してアクイレイアを完全に破壊し、ミラノなどを陥れたが、教皇レオ1世の説得により撤退した。
453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。死後は息子たちのあいだで内紛が起こり、帝国は急速に瓦解した。キリスト教徒からは「神の災い」「神の鞭」と恐れられ、中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』にはエツェルの名で登場する。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ウァラメール (469年没)
- ルーア (434年没)
- Saint Angelina of Serbia (1520年没)
- キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ (1691年没)
- エラク (454年没)