HISTORICAL PERSON · 2021年没

ハンス・キュング

スイスのカトリック神学者。1970年に教皇無謬論に異論を唱えて論争を起こし、カトリック神学を教える資格を剥奪された。司祭には留まった。

生涯
2021年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / テュービンゲン)
出生地
スイス連邦(ズールゼー)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ハンス・キュング(ハンス・キュンクとも表記される)は、1928年3月19日に生まれ、2021年4月6日に没したスイスのカトリック神学者・司祭である。ローマ教皇の無謬性に異論を唱えて論争を呼び、カトリック神学を教える資格を失ったが、生涯カトリックの司祭であり続けた。

生まれたのはルツェルン州のズルゼーで、7人きょうだいの長子だった。父は靴店を営んでいた。ローマのグレゴリアン大学で哲学と神学を学び、1954年に司祭に叙階された。最初のミサはサン・ピエトロ大聖堂で行い、知人も多かったスイス衛兵に向けて説教したという。その後パリのソルボンヌやパリ・カトリック学院でも学び、1957年に神学の博士号を得た。ルツェルンで2年ほど司牧に携わり、カール・バルトに招かれてカトリック教会の改革の展望について講演した。その1週間後の1959年1月、教皇ヨハネ23世が公会議の開催を発表した。

ミュンスター大学で1年教えたのち、1960年にドイツのテュービンゲン大学の基礎神学教授となった。同じ年に著した『公会議、改革と再統一』は、まもなく開かれる公会議の構想の多くを先取りした内容で、数か国でベストセラーになった。1962年には教皇ヨハネ23世から第2バチカン公会議の専門神学顧問に任じられた。34歳で、最年少級の顧問だったという。1965年の閉会まで参加者の助言役を務めた。キュングの働きかけでテュービンゲンのカトリック神学部は、のちの教皇ベネディクト16世となるヨーゼフ・ラッツィンガーを教授に迎えた。1963年の訪米では「教会と自由」と題した講演を各地の大学で行い、聴衆は2万5千人を超える会場もあった。4月にはホワイトハウスでケネディ大統領と会い、「カトリック教会の新しいフロンティアの人」と紹介された。

1960年代にはしだいに改革的な立場を示した。1971年の『無謬? 一つの問い』で、教皇無謬論を公然と退けた。19世紀末の古カトリック教会の分離以来、主要なカトリック神学者としては初めてだったとされる。聖職者の独身制を批判し、女性にも聖職や助祭職を開くことを求め、教会の現状は「福音と古い伝統に反する」と書いた。バチカンから説明のためローマに出頭するよう求められたが、キュングは自分に関する資料の開示などを要求して応じなかった。1979年12月18日、ついに神学を教える資格(ミシオ・カノニカ)を剥奪された。アメリカやカナダの神学者60人が抗議し、テュービンゲンでは千人の学生が蝋燭を手に集まった。キュングはこの措置を「異端審問の個人的な体験」と呼んだ。大学では1996年の退職まで、エキュメニズム神学の教授を務めた。1981年にはシカゴ大学の客員教授を3か月務めている。

その後も教皇庁を批判し続け、ヨハネ・パウロ2世を名前で呼ばず「教皇ボイティワ」と呼んだ。2005年9月26日には、かつての同僚である教皇ベネディクト16世とカステル・ガンドルフォの邸宅で数時間会見し、教義上の議論は意味がないという点で一致した。しかし2009年には、ベネディクト16世は孤立しており大胆な改革はできないと批判した。1995年からはグローバル倫理財団の会長を務め、宗教間の対話と世界倫理の問題に力を注いだ。2008年にはオットー・ハーン平和メダルを受けている。著書に『キリスト教徒であることについて』『神は存在するか』『キリスト教は女性をどう見てきたか』などがある。2021年4月6日、テュービンゲンで93歳で亡くなった。

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