伝記
カール11世は、プファルツ朝第2代のスウェーデン国王(在位1660年から1697年)である。1655年11月24日にストックホルム宮殿で、カール10世とホルシュタイン=ゴットルプ公女ヘートヴィヒ・エレオノーラの唯一の子として生まれた。父は戦地から戻った1659年の冬にはじめて四歳の息子を見たが、翌年の2月に病没した。カール11世は4歳で即位し、遺言により母を名目上の摂政とする摂政団が国を治めた。
母は政治の対立に巻き込まれぬよう注意し、少年王は議会で摂政団に語りかけるとき、母の耳に質問をささやいて、母が声に出して代弁したという。教育も摂政団に任せられたが、1672年12月18日に成人して親政を始めた時点では、国政の基本を知らず、ほぼ読み書きができなかった。現在ではディスレクシアだった可能性が指摘されている。若いころはスポーツや運動に励み、熊狩りを好んだ。1674年にストックホルムを訪れたイタリア人マガロッティは、この王を、ほとんど何もかも恐れ、外国人との会話に気が進まず、人の顔を見る勇気もない少年だと書いた。一方で信仰心は篤く、正直で高潔な性格であったとされる。摂政政府の時代の1666年11月14日には、摂政団と王太后が古代の記念物の保護を布告しており、これはヨーロッパで国家が文化財保護に乗り出した最初の事例とされる。
1675年からのスウェーデン・ブランデンブルク戦争とスコーネ戦争では、スコーネ地方に大本営を置いて親征した。1676年8月17日の戦いでデンマーク軍を敗走させ、12月4日にはルンドの戦いで、自ら出陣したデンマーク=ノルウェー王クリスチャン5世を撃破した。ルンドは激戦で、参加した兵の半分以上が戦死したといわれる。翌年7月の戦いでもデンマーク軍に勝った。しかしルイ14世の主導で和議が結ばれ、ドイツでの影響力は失われ、ブランデンブルク=プロイセンの台頭を許した。戦争は実質的な敗戦だったが、王の指導力は国内で高く評価され、相次ぐ苦戦は大貴族の失策とみなされて、絶対王政を容認する流れにつながった。政府はフランスと手を切ってデンマークとの関係修復に取り組み、1680年にカール11世はデンマーク王女ウルリカ・エレオノーラと結婚した。二人の間には7人の子が生まれ、4人は夭折し、3人が成人した。
1680年の議会では大貴族の土地を王領地に変えて貴族の勢力を大幅に削り、摂政団の責任を追及して賠償を請求した。王は神に対してだけ責任を負うという決議が採択され、1682年にスウェーデンは絶対君主制へ移行した。この改革には寵臣ユーハン・ユレンシェーナの協力が欠かせなかったとされる。王領地は国土の3割を超え、収入が増えた王は、徴兵制で兵を集めて常備軍を備えた軍事国家へと国を作り替えた。1693年の議会では王の絶対性が宣言された。
一方で、反逆者には容赦せず、財政を立て直すために重税も課した。フィンランドに対する同化政策は圧政に等しく、崩御の前後にはフィン人の反乱も起きた。「ヨーロッパ大陸で起きる戦争には関与するべきではない」という遺言を残し、1697年4月5日にストックホルムで没した。15歳の息子カール12世が跡を継いだ。現在もスウェーデンの500クローナ紙幣に肖像が用いられている。
同じ年に亡くなった人物
- Gregorio Barbarigo (1697年)
- Jean-Baptiste de Santeul (1697年)
- ヤン・デ・ブライ (1697年)
- ニコラウス・ブルーンス (1697年没)
- ニールス・ユール (1697年)
同じ地域に関係する人物
- Hugo Johansson (1977年没)
- ラルフ・アースキン (2005年没)
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- スティーグ・ラーソン (2004年没)