伝記
ヤン3世ソビェスキは、ポーランド国王(在位1674年から1696年)である。1629年8月17日、ルブフ郊外のオレスコで、この地方の名門の家に生まれた。父はルーシ県知事やクラクフ城代を務めたヤクプ・ソビェスキ、母ゾフィアはポーランド大ヘトマンの孫娘であった。クラクフの学校を出てクラクフ大学で哲学を学んだのち、兄マレクとともに二年以上にわたり西ヨーロッパを旅した。この旅でコンデ公ルイ2世、のちのイングランド王チャールズ2世、オラニエ公ウィレム2世らと知り合い、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語を身につけたとされ、こうした経験が後年の軍事的活躍に影響したという。
兄弟は1648年に帰国し、フメリニツキーの乱と戦う共和国軍に加わった。ヤンは騎兵の小連隊を組織して率いたが、ズボリフの戦いののち兄弟は離ればなれになり、兄マレクはクリミア・タタールの捕虜となって1652年に没した。ヤンは大連隊長に昇進し、ベレステーチュコの戦いで名声を得て、国王ヤン2世カジミェシュに見出されてオスマン帝国の首都イスタンブールへ使節として送られ、トルコ人の軍事的習慣と戦術を学んだ。1655年にスウェーデンの侵攻が始まると、いったんヴィエルコポルスカの防衛軍に加わったが、上官が降伏すると、1656年4月から国王軍に参加した。同年7月のワルシャワの戦いでは、2000騎のクリミア・タタール騎兵を率いて戦功をあげ、王冠領大旗手に昇進した。
1665年には王妃の女官で未亡人のマリア・カジミェラ(マリシェンカ)と結婚し、1666年に王冠領野戦ヘトマン、1667年にはピドハイツェの戦いでコサックとクリミア・タタールの同盟軍に勝利を収めた。1668年2月5日には、事実上の最高司令官である王冠領大ヘトマンに就いた。1672年のポーランド・オスマン戦争で、後継の国王ミハウが講和を結ぼうとしたが、セイムはこれを承認せず、ソビェスキに戦争を続けさせた。彼は1673年11月にホティンの戦いで勝って要塞を占領し、この勝利で国民的人気を高めた。勝利の日の前日に国王ミハウが死んでおり、翌1674年5月19日の自由選挙で国王に選ばれた。最も熱心な支持者は妻だったという。
当時の共和国は半世紀近い戦争で疲れ切っており、国庫はほぼ空だった。1674年の秋にオスマン帝国との戦争を再開してカミェニェツ=ポドルスキなどの奪回に成功したが、1676年の講和でカミェニェツ=ポドルスキはオスマン側に渡った。この間、共和国軍の改革にも取り組み、連隊単位に再編して銃や砲術の充実を図った。外交では当初のフランス寄りの構想を改め、1683年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同盟を結んだ。オスマン帝国が大宰相カラ・ムスタファ・パシャの15万の軍でウィーンを包囲すると、皇帝の求めに応じて連合軍を率い、9月12日に総攻撃を命じた。カーレンベルクの丘を駆け下ったフサリアが敵陣の中央を突破し、オスマン軍はわずか1時間ほどで包囲網を寸断されて潰走した。この勝利でヤン3世は、キリスト教世界を守った英雄として名声を得た。
しかしその後の治世は思うに任せず、1686年にはロシアと恒久平和条約を結んでキエフなどの占領を認めた。国内ではマグナートの争いと自由拒否権で政治が混乱し、晩年は息子に王位を継がせようと努めたが、王妃が反対派の中心となった。1696年6月17日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Gregorio de Matos (1696年)
- セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル (1696年)
- 施琅 (1696年没)
- Dionysios III de Constantinople (1696年没)
- ヘンドリック・カシミール2世 (ナッサウ=ディーツ侯) (1696年没)
同じ地域に関係する人物
- フリデリク・ブッフホルツ (1837年没)
- ロムアルト・トラウグット (1864年没)
- シェモヴィト4世 (1426年没)
- ウワディスワフ・シュピルマン (2000年没)
- ヴワディスワフ・ゴムウカ (1982年没)