HISTORICAL PERSON · 1696年没

セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル

フランスの貴族。愛娘に宛てた機知に富む手紙で17世紀の時代の様子を生き生きと伝え、書簡作家として知られる。

生涯
1696年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタルは、17世紀フランスの貴族で、日本ではセヴィニエ夫人の名で知られる。1626年2月5日にパリで生まれ、1696年4月17日に没した。愛する娘に宛てて書き送った、機知に富み時代の風景を鮮やかに描いた書簡で名高く、書簡作家とも呼ばれる。

ブルゴーニュ出身の旧家の一員で、父のシャンタル男爵は、聖フランシスコ・サレジオの弟子であり友であった聖ジャンヌ・ド・シャンタルの息子だった。母はマリー・ド・クーランジュである。父は1627年、レ島にイングランド軍が侵攻した際に殺された。母も数年後に亡くなり、マリーは7歳で孤児となって、母方の祖父母のもとで育てられた。1636年に母方の祖父が没すると、リヴリーの修道院の聖職者だった叔父のクリストフ・ド・クーランジュが法的な後見人となり、その庇護のもとで良い教育を受けた。

1644年8月4日、ブルターニュの名家の侯爵アンリ・ド・セヴィニエと結婚した。夫は土地の旧家と良好な関係にあったが、広い所領は持たなかった。夫妻はレ・ロシュルの館に移り、1646年に長女フランソワーズ・マルグリット、1648年に長男シャルルが生まれた。ところが1651年2月4日、夫はゴンドラン夫人をめぐってシュヴァリエ・ダルブレと決闘し、相手に勝ったものの致命傷を負って2日後に死んだ。マリーはわずか25歳で未亡人となり、二度と結婚せず、子供たちの養育に専念した。1651年のほとんどをレ・ロシュルで隠遁して過ごし、11月にパリへ戻った。以後は都会と田園を行き来して暮らし、パリではサロンにしばしば通い、ルイ14世の財務長官ニコラ・フーケが主宰するサロンにも顔を出した。娘の結婚前に最も多く手紙を交わしたのは、従兄で友人のビュッシー伯ロジェ・ド・ラビュタンだったが、1658年に仲違いした。

1669年1月29日、長女フランソワーズはプロヴァンスの貴族グリニャン伯と結婚した。伯は三度目の結婚で、まもなくプロヴァンスの副知事として任地へ向かった。娘と非常に親しかった夫人は、離れて暮らすことになり、有名な書簡の最初の一通を1671年2月6日に送った。二人の文通は夫人の死まで続いた。1673年から書簡は複写されて回覧され、半ば公的な記録として知られるようになったため、彼女は書簡をいっそう巧みに書くようになったという。1676年には重病になり、保養地ヴィシーを訪れるまで回復しなかった。この地から出した書簡は最高の出来と評され、17世紀の鉱泉地の生活を比類のない鮮やかさで描き出している。1679年には親しい友人ラ・ロシュフコーの死に接した。1684年、長男シャルルが結婚し、そのために夫人は自分の財産をほとんど子供たちに分け与えたに等しかった。1688年、孫のグリニャン侯の初陣に家族は沸き立ち、同じ年に夫人はラシーヌの『エステル』をサン=ルイ王立学校で観た。1693年には従兄ビュッシーとラファイエット夫人を失い、1694年にはラヴァルダン夫人も世を去った。

1696年、娘フランソワーズが病の床についている間に、夫人も天然痘の高熱に襲われ、グリニャンで4月17日に死去した。娘はそばにいなかった。夫人はデカルトの動物機械論をたしなめ、「愛する機械、特定の人間をえり好みする機械、しっと深い機械、こわがりの機械」と書き、けれどもデカルトはそれを信じさせようとは思わなかったはずだと付け加えた。邦訳に『セヴィニェ夫人手紙抄』(井上究一郎訳、岩波文庫)や『セヴィニェ夫人の手紙』(吉田郁子訳、大学書林)がある。

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