伝記
イヴァン5世は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1682年から1696年)である。1666年にモスクワで、アレクセイ・ミハイロヴィチと最初の妻マリヤ・ミロスラフスカヤの息子として生まれ、五男にあたる。上の兄たちのうち成長したのは二人だけで、長兄アレクセイは1670年に15歳で没したため、次兄フョードルが父の死後にツァーリとなった。イヴァンは弱視と失語症の障害があって体も弱く、当初は後継候補から外れていた。
1682年にフョードル3世が子のないまま亡くなると、宮廷は後継をめぐる危機に直面した。次の年長の兄であるイヴァンは心身ともに病弱とみなされ、代わりに、当時わずか10歳でも心身が健康なナルイシキン派の異母弟ピョートルを立てる案が出された。教会とナルイシキン家はこれを支持したが、ミロスラフスキー家と、イヴァンの姉ソフィヤはこれに異を唱えた。フョードルが毒殺され、イヴァンがボヤールに絞め殺されたという噂がモスクワに広がり、銃兵隊がクレムリンを襲った。騒ぎは、イヴァンが自ら姿を見せて無事を示すまで収まらなかったという。銃兵隊がイヴァンのツァーリ即位を求めた結果、イヴァンとピョートルの共同統治が決まり、二人が成人するまで摂政政府を置くこととなった。ミロスラフスキー派は反乱に乗じて政権を担っていたナルイシキン派を壊滅させたとされる。
1682年6月25日、二人は生神女就寝大聖堂で共同ツァーリとして戴冠した。この儀式のために、二人分の席をそなえた特別な玉座が作られ、現在はクレムリンの武器庫に展示されている。イヴァンは16歳、ピョートルは10歳で、イヴァンが「年長のツァーリ」とされたが、実権は姉ソフィヤが摂政として握り、以後7年続いた。ソフィヤは首席顧問のヴァシーリー・ゴリツィン公と組んで精力的に政治を行ったが、重要な件についてイヴァンに相談したことはなかったという。彼女はイヴァンへの敬意の表し方に気を配ったが、それはピョートル派の影響力を削ぐ手段でもあった。
イヴァンは1683年末か1684年初めに、小貴族の娘プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァと結婚した。花嫁は、居並ぶ候補の中から選ぶという、ロシアの君主の伝統的なやり方で決められたとされる。穏やかで素朴な夫を支えた彼女は、質素な暮らしや慈善、信心、政治に関わらない人柄が尊敬を集めた。ピョートル1世も彼女を敬い、自分の二人の娘の養育を任せたという。男子には恵まれなかったが、五人の娘をもうけた。1689年9月にソフィヤの摂政政府がピョートル支持派によって倒された後は、名ばかりの共同統治者のまま、昼も夜も断食と祈りに過ごし、残りの10年ほどはエネルギッシュなピョートルの陰に隠れた。外国の大使には、27歳のころにほとんど目が見えず、体も不自由だと描写されている。病身をおして儀式や政務を務め続け、1696年に29歳で没した。ピョートルは、そんな兄を敬っていたとされる。
四女のアンナは1730年に女帝となり、イヴァン5世の血統の復活を図った。だが曾孫にあたる幼帝イヴァン6世が廃位されて、その試みは失敗に終わり、イヴァン5世の子孫は断絶した。
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