HISTORICAL PERSON · 1695年没

クリスティアーン・ホイヘンス

オランダの数学者・物理学者・天文学者。土星の衛星タイタンを発見して土星の環を認識し、振り子時計を製作した。『光についての論考』で光の波動説を提唱し、ホイヘンスの原理でも知られる。

生涯
1695年没
死亡地
オランダ(南ホラント州 / デン・ハーグ)
出生地
オランダ(デン・ハーグ)
出典
世界地図
オランダ(南ホラント州)

伝記

クリスティアーン・ホイヘンスは、オランダの数学者・物理学者・天文学者である。1629年4月14日、ハーグの裕福で有力な家に生まれた。父コンスタンテインはオラニエ家に仕えた外交官・助言者であり、詩人・作曲家でもあって、ガリレオ・ガリレイやメルセンヌ、デカルトら欧州の知識人と広く文通した。母スザンナ・ファン・バールレは、娘の出産後まもなく亡くなったとされる。兄コンスタンテインは多才で自然科学にも通じ、望遠鏡の開発をともに行った。ホイヘンスは16歳まで家庭で教育を受け、幼いころから風車などの機械の模型で遊んだ。語学、音楽、歴史、地理、数学、論理学、修辞学のほか、舞踊や剣術、乗馬も学んだ。

1644年には数学の家庭教師ヤン・スタンピオンから高度な読書課題を与えられ、のちにデカルトが幾何学の力に感心し、メルセンヌは彼を「新しいアルキメデス」と呼んだという。16歳でライデン大学に送られ、1645年5月から1647年3月まで法学と数学を学んだ。デカルトの勧めで、フランス・ファン・スホーテンが兄弟の家庭教師となり、ヴィエトやデカルト、フェルマーの数学を教えた。その後ブレダに新設されたオラニエ学院に進み、1649年8月に学業を終えると、ナッサウ公ヘンリーの使節に同行して外交の仕事も経験した。デカルトに会うためストックホルムに渡ろうと考えたが、その前にデカルトが没した。

父は息子を外交官にと望んだが、ホイヘンスは学問の道へ進んだ。1655年、兄とレンズを磨いて自作した口径57ミリ、焦点距離3.37メートル、50倍の望遠鏡で、3月2日に土星最大の衛星タイタンを発見した。同じ年のうちに焦点距離7メートルの望遠鏡を作り、土星に付属する奇妙なものが環であると認識した。1656年に「土星衛星の観察」と題する冊子を出し、環についての認識をアナグラムの形で公表した。オリオン大星雲を独立に発見して残したスケッチは、最初のオリオン大星雲のスケッチとなった。1659年の『土星系』では、環が黄道面に対して傾いていることを示した。

時計の分野では、1656年12月25日に振り子時計を初めて製作したとされ、1657年に特許を得て、パリの職人テュレが製造した。1658年に『時計』を刊行し、1659年には等時曲線の問題を解いた。1663年に王立協会の外国人会員に選ばれ、1666年にはコルベールの招きでパリへ移り、外国人として初めてアカデミー・ロワイヤル・デ・シアンスの会員となり、1681年まで活躍した。1673年に刊行した『振り子時計』は、17世紀の力学の重要な著作とされる。1675年にはヒゲゼンマイ付きのテンプ時計を作り、同年に火薬を使う往復型のエンジンも考案した。

1685年にナントの勅令が廃止されるとハーグに戻り、1690年の『光についての論考』で光の波動説を唱えた。この説は一時ニュートンの粒子説に押されたが、のちにフレネルが彼の原理を生かして光の直進と回折を説明した。ハイゲンス式接眼鏡も考案した。1695年7月8日に没した。かつてオランダの25ギルダー紙幣に肖像が描かれ、土星探査機カッシーニから分離してタイタンに着陸した探査機には、彼の名が付けられた。

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