HISTORICAL PERSON · 2020年没

李登輝

中華民国の政治家で第4代総統。台湾本省人として初めて総統に就任し、「台湾民主化の父」と評価される。農業経済学者でもあり、日本統治時代の名は岩里政男。

生涯
2020年没
死亡地
中華民国(台北市 / 台北栄民総医院)
出生地
日本統治時代の台湾(三芝庄)
出典
世界地図
中華民国(台北市)

伝記

李登輝は、1923年1月15日に台北州淡水郡三芝庄(現在の新北市三芝区)で、李金龍と江錦の次男として生まれ、2020年7月30日に没した台湾の政治家、農業経済学者である。中華民国の第4代総統を1988年から2000年まで務め、台湾の本省人として初の総統となった。「台湾民主化の父」と評され、日本統治時代には岩里政男という名を使っていた。

父は植民地当局の警察補で、2歳上の兄は志願兵となってフィリピンの前線で行方不明になった。先祖は福建省永定から移り住んだ客家の系譜だったが、母方は閩南系で、本人に客家としての意識は薄かったとされる。公学校時代は父の転勤で4度転校し、のち淡江中学校を首席で卒業して台北高等学校に進んだ。1942年10月、京都帝国大学農学部の農業経済学科に入学した。農業経済を選んだ理由として、幼いころ小作人の苦しみを見たこと、農業問題が台湾の将来と深く関わると考えたことなどを挙げている。1944年に学徒出陣で入隊し、千葉の高射学校に配属され、1945年3月10日の東京大空襲に遭った。翌日の3月11日には、戦死した小隊長に代わって被災地の救援を指揮した。終戦は名古屋で迎えた。司馬遼太郎との対談では「22歳までは日本人だった」と語ったとされ、生涯流暢な日本語を話した。

終戦で中華民国籍となり、1946年春に台湾へ帰って、同年夏に台湾大学農学部へ編入した。この時期に共産党に入党したという証言があり、本人は2002年のインタビューで、かつて共産主義者であったことを認めている。ただ、回顧録では「二進二出」とする見方を事実無根として否定した。1949年に台湾大学を卒業して同大学の助手となり、同年に結婚した。1952年にアメリカへ留学し、アイオワ州立大学で修士の学位を得て1953年に帰国した。1957年には農復会に勤めて研究職を重ね、1961年にキリスト教に入信した。1965年にはコーネル大学へ留学し、1968年に博士号を取得した。博士論文は全米農業経済学科賞を受賞し、1971年に出版された。42歳で留学生のなかで最年長だった彼は、週末に若い学生を自宅へ招いてステーキをふるまったため、「牛排李」と呼ばれた。

1969年には憲兵に連行されて17時間の取調べを受け、1週間拘束された。この経験から、台湾人を白色テロの恐怖から救おうと決意したと後年述べている。1971年に蔣経国の知遇を得て国民党に入党し、農業を担当する政務委員として入閣した。49歳で、当時最年少の入閣だった。1978年に台北市長となって翡翠ダムの建設や芸術祭に力を入れ、1981年には台湾省政府主席に任じられた。1982年には長男の憲文を32歳で亡くしている。1984年、蔣経国に指名されて副総統に就任した。自身は後継者として選ばれたかどうかは本当に知らず、後を継いだのは「歴史の偶然」だと語っている。

1988年1月13日に蔣経国が死去し、憲法の規定により総統に就任、7月には国民党主席となった。しかし権力の基盤は固まらず、李煥、郝柏村、兪国華ら党内の保守派が党、軍、行政院の実権を握っていた。李登輝はこれらの実力者を牽制しつつ、微妙な均衡のなかで政権を運営した。のちに「反攻大陸」の看板を下ろし、国共内戦の終結を宣言して動員戡乱時期臨時条款を廃止し、民主化を進めたとされる。第三次台湾海峡危機では、中国の軍事的圧力に対して中華民国の独立を守った。退任後は台湾団結連盟の結成の中心となり、独立運動に影響を与え続けた。

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