伝記
ロバート・フィスクは、イギリスとアイルランドの市民権を持つ作家でありジャーナリストである。1946年7月12日にイングランドのケント州メードストンで生まれ、2020年10月30日に没した。国際特派員として中東を中心に数多くの紛争を取材し、称賛を受ける一方で非難も浴びた。
父ウィリアム(ビル)は市の財務担当者で、第一次世界大戦に従軍した人物である。母ペギーはアマチュアの画家で、のちにメイドストーンの判事になった。フィスクは二人の唯一の子供だった。大戦末期に父は他の兵士の処刑命令に従わず、処罰を受けたという。フィスクは後年、父が他人を殺すことを拒んだのは父が人生で行った唯一のことであり、自分もそうしただろうと語っている。父は従軍の話をほとんどしなかったが、息子は戦争に魅了されていた。父の死後、1918年8月からの大隊の日誌を父が書いていたことを知った。ランカスター大学でラテン語と言語学の学士号を取り、1983年にはダブリン大学トリニティ・カレッジで政治学の博士号を得た。論文は第二次世界大戦中のアイルランドの中立と、ダブリン、ベルファスト、ロンドンの関係を扱い、のちに『戦時下』として出版された。
新聞記者としては『サンデー・エクスプレス』を経て『タイムズ』に移り、1972年から1975年まで北アイルランド問題のさなかのベルファストで特派員を務めた。続いてカーネーション革命直後のポルトガルに赴任し、1976年から1987年までは中東に駐在して、1979年のイラン革命を取材した。イラン航空655便撃墜事件に関する記事をめぐって、1989年に『インデペンデント』紙へ移った。『ニューヨーク・タイムズ』は彼を「おそらくイギリスで最も有名な外国特派員」と評し、『エコノミスト』誌は第二次世界大戦後の中東で最も影響力のある特派員の一人と紹介した。外国報道の年間最優秀記者賞を7回受けている。
1976年からはレバノン内戦の間ベイルートに断続的に滞在し、サブラー・シャティーラ事件やハマー虐殺の現場を最初に訪れた記者の一人となった。1990年にはレバノン紛争を扱った『ピティ・ザ・ネーション』を出版した。ほかにソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、ボスニアやコソボの紛争、アルジェリア内戦、2003年のイラク侵攻、アラブの春、シリア内戦も取材した。イラン・イラク戦争の取材では、イラク軍の重砲の近くにいたために部分的に難聴になった。2001年のアフガニスタン介入の際には、パキスタンでアメリカ軍の爆撃を逃れてきた難民たちに襲われ、現地のイスラム教指導者が止めるまで殴られた。それでも襲った者たちの責任を否定し、その残虐性は西側の政策の産物だと指摘した。アラビア語を話し、1993年から1997年にかけてウサーマ・ビン・ラーディンに3回インタビューした。欧米の記者でこれを行った人は少ない。
2003年のイラク侵攻ではバグダッドに滞在し、ホテルに籠って報道する他の記者を批判した。しかし、その批判はほかの記者から否定された。2012年9月以降のシリア内戦の報道については、シリア政府の立場に寄りすぎているとの非難を受け、2018年のドゥーマーでの化学兵器使用の疑いをめぐる記事も論争を呼んだ。主な著書に『ピティ・ザ・ネーション』のほか、2005年の『文明のための大戦争』、2015年の『シリア』がある。2006年にはBBCの番組「無人島レコード」で、バーバーの『弦楽のためのアダージョ』、マロリーの『アーサー王の死』、バイオリンを選んだ。
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