HISTORICAL PERSON · 2020年没

ピエール・カルダン

フランスのファッションデザイナー。「布の魔術師」と呼ばれ、宇宙時代風でユニセックスな前衛的デザインにより、1960〜70年代に一世を風靡した。

生涯
2020年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヌイイ=シュル=セーヌ)
出生地
イタリア共和国(Sant'Andrea di Barbarana)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ピエール・カルダンは、1922年7月2日に生まれ、2020年12月29日に没したフランスのファッションデザイナーである。イタリア・ヴェネト州の生まれで、イタリア名はピエトロ・コスタンテ・カルディンという。「布の魔術師」と呼ばれ、前衛的なスタイルでオートクチュールのブランドを立ち上げ、1960年代から1970年代に一世を風靡した。

両親はワイン商で裕福だったが、第一次世界大戦で財産を失い、1924年に十人の兄弟姉妹とともにフランスのサン・テティエンヌに移り住んだ。父は建築を学ばせたがったが、本人は幼いころから服作りに関心を持ち、14歳で仕立屋の徒弟になったとされる。1945年にパリへ移って建築を志したが、ジャンヌ・パキャンのブティックで人脈ができ、ファッションの道へ進んだ。クリスチャン・ディオールの独立時の立ち上げにも加わり、1947年にはディオールの店で仕立部門の責任者を任されたとされる。

1950年に自らのアトリエを開き、1953年にはオート・クチュールを始めた。宇宙時代的なデザインを掲げ、女性的な形を無視したユニセックスなスタイルや幾何学模様など、実験的で前衛的な作風で名を売った。ただし実用的でないデザインも多かったという。1954年に「バブル・ドレス」を、1959年には百貨店プランタン向けのプレタポルテを発表し、新しい流れをつくった。1957年に男性向けのブティックも開いたとされる。

日本に目を向けた最初のデザイナーでもあり、1958年4月に日本デザイナー協会と文化服装学院に招かれて初来日し、立体裁断の講習会を開いた。ショーに多様性を出したいと考え、森英恵の紹介で松本弘子を知り、松本は1960年にパリ・コレクションにデビューした。日本人モデルを使ったヨーロッパのデザイナーは彼が最初で、当時まだ珍しかった男性や黒人女性のモデルも起用した。1959年には髙島屋とライセンス契約を結び、1960年9月に4店にカルダン・ジュネスのコーナーを開設した。1970年3月には大阪万博の開幕間もない時期に来日してショーを開き、2002年には80歳で再び来日して日本橋髙島屋で展覧会を開いた。1996年4月には日本経済新聞に「私の履歴書」を連載している。

1970年2月に作業場と倉庫が火事で全焼し、この年の春夏物が全滅したが、同年にアンバサドゥール劇場を買い取り、演劇や音楽などの拠点「エスパス・ピエール・カルダン」を創設した。「現代芸術のパトロン」と称される。1981年にはレストラン「マキシム」の経営権を全面的に獲得してオーナーとなり、赤字だった店を改装して立て直した。世界各地に店を出したが、2020年にすべて閉店した。2001年にはサド侯爵ゆかりのラコスト城の持ち主となり、毎夏の音楽祭を始めた。1993年には南仏ポール・ラ・ギャレールの「パレ・ビュル」に野外円形劇場を開いている。女優ジャンヌ・モローの主演映画『エヴァの匂い』と『天使の入江』では衣裳を手掛けた。ソ連や中国でもいち早くショーを開き、1991年からはユネスコ親善大使としてチェルノブイリ被害者の救済にも尽くした。各国から勲章を授けられ、日本では勲二等瑞宝章を受けている。ブランド名を貸すライセンスビジネスで最も成功したデザイナーとしても知られる。生涯独身で子はなく、2020年12月29日、パリアメリカン病院で多臓器不全のため死去した。

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