伝記
キュアクサレス2世は、メディア王国の王で、紀元前625年から紀元前584年まで在位したとされる。先代の王フラオルテスの子である。父はアッシリアとの戦いで多くの兵とともに戦死し、その後、アッシリアと結んでいたスキタイ人がメディアに君臨した。彼が王位に就いたのは、こうした苦しい状況の中であった。名は、メディア語で「良き支配者」を意味する名がギリシア語化されたものとされ、ギリシアの著述家ディオドロスは別の名で伝え、「槍を持つ者」の意だと説明している。
即位後の彼は、まずスキタイの支配を打ち破った。ヘロドトスによれば、スキタイの支配者たちを宴会に招いて酔わせたうえで殺害し、その勢力をマンナエ地方まで後退させたという。あわせて軍の改革にも取り組んだ。それまで部族ごとの民兵として戦っていたメディア軍を、国家が装備を整える正規軍に改め、歩兵と弓兵を分け、スキタイの機動的な騎馬戦術も取り入れたと伝えられる。そのうえでオルーミーイェ湖地方まで支配を広げ、東方のヒュルカニアやパルティアも征服したとされる。ディオドロスによれば、パルティアが背いたときにはサカ人の女王ザリナイアとの戦いが起き、最終的にパルティア人はメディアの支配を受け入れ、サカ人とのあいだには講和が成ったという。
アッシリアの討伐は父の遺志を継ぐものだった。紀元前614年、彼はニネヴェへ直行せず、ティグリス川沿いの都市タルビシュを攻略し、さらにアッシュールを攻めて掠奪した。その頃、南ではバビロニアを建国したナボポラッサルがアッシリアに攻勢をかけており、二人はアッシュールの廃墟で会見して同盟を結んだ。その証として、彼の娘とナボポラッサルの皇太子ネブカドネザル2世の婚礼が行われた。紀元前612年、両軍は連合してニネヴェを攻め、同年に陥落させた。ナボポラッサルの記録によれば、ニネヴェは短時間のうちに廃墟となった。紀元前610年にはハッランを攻略し、アッシリア帝国は完全に滅亡した。
その後、彼の目は西へ向かった。紀元前590年ごろにはウラルトゥの古都トゥシュパを攻略して同国を滅ぼし、メソポタミア以北の山岳地帯を押さえた。さらにアナトリアの強国リュディアと5年にわたって戦ったが、決着はつかなかった。ヘロドトスは、リュディア王アリュアッテスがスキタイ人を匿い、その引き渡しを拒んだことが原因だったと伝える。紀元前585年、ハリュス川で両軍が交戦中に、ミレトスのタレスが予言していた日食が起きて昼が夜のようになり、戦いは止んだ。ナボニドゥスの仲介で講和が成り、ハリュス川が両国の国境とされ、彼の子アステュアゲスとアリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻も定められた。
紀元前584年、彼は世を去り、アステュアゲスが後を継いだ。ヘロドトスは在位を40年としている。なお、ヘロドトスはニネヴェ攻略をハリュス川の戦いより先に記すが、実際の順序は逆で、二つの作戦は並行して進められたと考えられている。スキタイからの解放、アッシリアの打倒、リュディアとの国境画定を通じて、彼はイランの諸民族の大半を束ね、メディアを大国へ押し上げた王として記憶されている。