伝記
サー・ヘンリー・モーガンは、ウェールズ出身の私掠船長で、農園主でもある。生年は1635年頃、没年は1688年8月25日で、ウェールズ語ではハリ・モーガンと呼ばれる。1660年代からジャマイカのポート・ロイヤルを拠点に、イングランド政府から私掠免状を受けて、カリブ海や中央アメリカでスペインの船や植民地を襲って富を蓄えた。その富で大規模な砂糖農園も営み、1674年にナイト爵を与えられてジャマイカの副総督に任命され、海賊としては珍しい社会的成功者として、生涯をベッドの上で終えた。
出自はほとんど分かっていない。現在はカーディフの一部となっているモンマスシャーの地域に、ハリ・モーガンとして生まれたといわれる。歴史家は、両親や先祖を特定する試みは、すべて不十分であったと記している。早くに学校をやめ、本よりも槍に慣れていたと述べる研究者もいる。カリブ海に来た経緯も不明で、1654年の西インド諸島出兵の一員だったという説も、年季奉公で渡ったという説もある。当時のカリブ海は若者に機会のある土地だったが、砂糖産業で稼ぐには多額の投資が要り、ほかに利益を得るには交易か、スペイン帝国への略奪しかなかった。政府は敵国への攻撃を名目に、個人や船に略奪を許可しており、これが私掠船である。モーガンは1660年代前半に、英国海軍将校が率いた私掠船団の一員だったと推測される。1665年8月には仲間の船長とともに、大量の貴重品を積んでポート・ロイヤルに帰り、総督モディフォードを感心させた。1666年初めにはジャマイカ副総督の娘で従姉妹にあたるメアリー・モーガンと結婚し、島の上流階級との交流を得たが、子はできなかった。この頃、ジャマイカで最初の農園も買ったという。
1667年にイングランドとスペインの外交関係が悪化すると、モディフォードの許可と命令を受け、スペインの輸送船や植民地を襲った。1668年1月に10隻の船と500人の兵が集められ、モーガンは提督の地位を与えられた。当初はハバナを狙ったが防備が固いと知り、内陸のプエルト・プリンシペに目標を変えて占領した。ただし戦利品は期待したほどではなかった。続いて、スペインの貿易の要所で、2つの要塞と城を備えた強固な街ポルトベロを7月に攻め、素早く砦と街を占領した。味方の損害は18人死亡、32人負傷だったという。身代金は10万ペソで交渉がまとまり、略奪品と合わせて、7万から10万ポンドと見積もられる戦利品を携えてポート・ロイヤルへ戻った。3年間で、ベネズエラのマラカイボなど、スペインの主要な拠点を次々に襲撃し、スペイン人を恐怖させた一方、イングランド人からは英雄視され、国王チャールズ2世ら有力者も同様だった。
1671年にパナマ・シティを壊滅させたが、前年の講和条約に違反するとして、スペイン当局はイングランドに処罰を求めた。1672年、当局は外交への配慮からモーガンを逮捕してロンドンに召喚したが、目立った処罰はなく、1674年11月にナイト爵と副総督の地位を与えられて西インド諸島へ戻った。議員も務め、総督の不在時には3度にわたり総督代行を務めたが、現職総督との不仲で副総督を解任され、1683年までに議員も辞めさせられた。1684年には、元部下が当時の悪行に触れた回顧録を出版したため、名誉棄損の裁判を起こした。この著作は後世のモーガン像に大きく影響した。晩年は大酒がたたって健康を損ない、1688年8月25日にジャマイカで亡くなり、植民地政府は国葬を決めた。子はなく、3つの大農園などの莫大な資産は妻に相続された。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・キノー (1688年没)
- Countess Sophie Amalie of Nassau-Siegen (1688年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) (1688年没)
- オットー・ヴィルヘルム・フォン・ケーニヒスマルク (1688年)
- ナーラーイ (1688年没)
同じ地域に関係する人物
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