伝記
ノエル・ピアース・カワードは、1899年12月16日にロンドン郊外のテディントンで生まれ、1973年3月26日にバミューダの自宅で没したイギリスの劇作家、作曲家、演出家、俳優、歌手である。機知とあでやかさで知られ、タイム誌は彼の持ち味を「厚かましさと洒落、気取りと気品の組み合わせ」と評した。1970年にサーの称号を受けた。
父アーサーはピアノのセールスマンで、母ヴァイオレットは海軍の測量士官の娘であった。三人兄弟の二番目で、長兄は6歳で亡くなっていた。父は野心と勤勉さに乏しく、家計はしばしば苦しかった。本人が「劇場の虫」と呼ぶものに早くから取りつかれ、7歳で素人の演芸会に出ていた。学校教育はほとんど受けなかったが、貪欲な読書家だった。野心的な母にロンドンのダンス学校へ通わされ、1910年に子役として初舞台を踏んだ。名優チャールズ・ホートリーを敬愛し、多くを学んだ。1913年には『ピーター・パン』にも出演した。14歳のとき、社交界の画家フィリップ・ストリートフィールドの庇護を受けるようになり、彼を通じて上流社会の人々と知り合った。この世界が、のちの戯曲の舞台となった。子役時代の仲間には、ガートルード・ローレンスらがいた。第一次世界大戦の間も舞台に立ちながら、歌も書いた。
第一次世界大戦後の、ジャズ・エイジの風潮のなかで、中流階級の移ろいやすく気ままな暮らしや、男女の関係がくるくる入れ替わる恋愛ゲームを描いた、洒落て機知に富む作品で人気を得た。長く続いたヴィクトリア朝の厳格な空気に飽き飽きしていた若い世代は、熱狂的に彼の作品を支持した。人生を「うわべだけのパーティー」と考え、真剣に人を愛したり、国を愛したり、人生に悩んだりすることを嫌い、深刻な人生劇より洗練された喜劇を好んだ。1920年代のファッションにも大きな影響を与え、首にスカーフを巻くことやタートルネックのセーターは、1924年の舞台『ヴォルテックス』で彼が初めて身につけたという。50を超える戯曲を書き、『花粉熱』『私生活』『生活の設計』『プレゼント・ラフター』『陽気な幽霊』などは、今も上演される。『ほろにが人生』のようなオペレッタを含む多くの音楽劇や、何百もの歌も作った。
第二次世界大戦が始まると、パリで英国の宣伝事務所を運営し、アメリカの世論と政府がイギリスを助けるよう、秘密情報部とも協力して働いた。同時に、「戦争は憎しみの舞台」という発言で戦争支持の風潮に背を向けたため、非国民と批判されたが、旧友のチャーチルは「あんなやつ、戦場に行っても役に立たない。一人ぐらい恋だ愛だと歌っているヤツがいてもいい」と弁護したという。海軍を描いた映画『軍旗の下に』で、アカデミー賞の特別賞を受け、同作は脚本賞にも指名された。戦後は新作のペースが鈍り、1950年代には、イギリスの税の高さに嫌気がさしてバミューダに移住した。一方で、キャバレーの歌い手として新たな成功を収め、1960年代から70年代に、戯曲や歌は新たな人気を得た。友人のイアン・フレミングが、小説を映画化する際、悪役ドクター・ノオにカワードを推したという。晩年はスイスとバミューダを行き来し、イギリスへは戻らなかった。1973年、心臓麻痺で亡くなった。同性愛を公には認めなかったが、死後に伝記作家らが率直に語った。2006年に、ロンドンの劇場は、その名を冠して改称された。
同じ年に亡くなった人物
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- リディヤ・ルスラノヴァ (1973年没)
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- テッド・デ・コルシア (1973年没)
- ウォリー・コックス (1973年没)
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