伝記
オットー・フォン・ゲーリケは、1602年に生まれ、1686年に没したドイツの科学者であり、工学技師、政治家である。生年月日はユリウス暦で1602年11月20日、グレゴリオ暦では11月30日にあたる。特に真空の研究で知られ、実験の方法と、繰り返し示せる公開実験を発展させた点が、科学革命の進展に寄与した。元の綴りはゲーリッケで、1666年まではその綴りを用いていた。
マクデブルクの名門の都市貴族の家に生まれ、15歳まで家庭教師について学んだ。1617年にライプツィヒ大学で法学と哲学を学び始めたが、1620年に父が亡くなり学業は中断した。その後ヘルムシュテット、イェーナ、ライデンの各大学で学び、ライデンで初めて数学、物理学、軍事工学の講義に出席した。教育課程の仕上げとして約9か月かけてフランスとイギリスを旅している。エルフルトで工学技師として働いたのち、1626年か1627年ごろにマクデブルクへ戻って市会議員となった。帰郷の頃にマルガレーテ・アレマンと結婚して3人の子をもうけたが、1645年に妻が早世し、1652年にドロテーア・レンケと再婚した。父と祖父も長く市参事会員で、市長を務めたことがあった。
1631年5月、三十年戦争のなかで皇帝側のカトリック同盟軍を率いるティリー伯がマクデブルクを攻め、城壁を破って略奪した。2万5千人を超える住民の約8割が亡くなり、1,900棟のうち約1,700棟が焼け、ゲーリケの財産もすべて失われたとされる。彼は包囲される前に市を脱出しており、スウェーデン王グスタフ2世の軍に入ったとも伝えられる。のちに市の復興にかかわり、1646年に市長に選ばれ、1678年に退くまでその任にあった。この間、各地の宮廷や会議に赴く外交使節を務めた。1642年9月のドレスデンのザクセン選帝侯の宮廷への派遣が最初で、1648年には三十年戦争を終わらせる和平会議にも市の代表として出た。1654年のレーゲンスブルクへの使節では、自らの発明した空気ポンプを披露して交渉を有利に運ぼうとし、科学の成果を外交に役立てた。以後約20年、危険で退屈な外交の任務に多くの時間を割いた。1666年には皇帝レオポルト1世から貴族に叙され、名にフォンを付けられるようになったが、実質的な意味は小さかったという。
真空の研究では、1650年に容器に接続でき、シリンダーとピストンで内部の空気を抜く真空ポンプを発明した。真空中では音が聞こえず、火が消え、果物を長く保存できることなどを実験で示した。銅製の2つの半球を合わせて内部を排気するとなかなか離れないというマクデブルクの半球の実験を行い、1663年にはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの前で24頭の馬を使って披露した。自然は真空を嫌うというアリストテレスの説への反証となったとされる。また容器の排気前後の重さの差から空気の重さを算出し、1リットルあたり約1.3グラムとほぼ正確な値を得た。使った天秤の傾きが日によって変わることから、大気圧が変動することにも気づいたという。気圧計を用いて初めて科学的な天気予想を行い、気象学の先駆けとなった。晩年は電気の研究に力を注ぎ、世界初の静電発電機を発明したが、成果はほとんど残っていない。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・メレ (1686年没)
- ジャック・ダルトワ (1686年没)
- ヨハン・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯) (1686年没)
- Francois Blondel (1686年)
- ニコラウス・ステノ (1686年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルムート・シュミット (2015年没)
- ハインツ・エアハルト (1979年没)
- エルンスト・マイ (1970年没)
- ヴィルヘルム・モーンケ (2001年没)
- ディトリウ・ブルンク (1853年没)