伝記
ニコラウス・ステノは、デンマーク名をニールス・ステンセンといい、1638年1月11日にコペンハーゲンで生まれ、1686年12月5日に没した17世紀の科学者である。解剖学者、地質学者であり、のちにカトリックの司教となり、福者に列せられた。耳下腺の主導管を発見し、この管はステノン管と呼ばれる。化石の研究から地層の生成を考察した『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』は、地質学の先駆的な著作とされる。
コペンハーゲンの金細工職人の息子として生まれ、同地の大学で学んだ。大学を終えると、ヨーロッパ各地を旅し、各地の名のある医師や科学者と交流した。生涯、旅を続けたかったとも伝えられる。若いころは数学に向いた資質を示したが、経済的な考慮から医学の道に進んだという。トマス・バルトリンのもとで、ハーヴェイの血液循環説や、バルトリン自身が見出したリンパ管など最新の解剖学の成果に親しんだ。ガリレイやデカルトの著作にも通じていたとされる。1659年のコペンハーゲン包囲の際には書物を読み、やがてスウェーデンとの戦争で学業を続けるのが難しくなり、オランダへ逃れた。1660年ごろからアムステルダムでブラシウスの解剖学の講義を受け、次いでライデンで医学を学んで学位を得た。ライデンでは医師シルヴィウスらと知り合い、スピノザやレイニール・デ・フラーフ、スワンメルダムとも交わった。耳下腺の導管についての観察は、このオランダ時代の仕事である。この発見は、ブラシウスから先取権を争われた。1661年に腺についての最初の解剖学書を出し、翌年にはそれに涙腺と鼻腺を加えた論考を発表した。
1664年にパリへ行き、裕福で科学に関心の深いテヴノーの庇護を受けた。1665年には学者たちの前で『脳の解剖についての講義』を述べて名を高めた。その後ウィーンとハンガリーを経て1665年にフィレンツェへ移り、トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチの保護を受けて、病院での職を与えられたが、自身の研究に割ける時間は少なくなった。ガリレイの科学的な手法に学ぶ研究者の集まり、アカデミア・デル・チメントの会員にも選ばれた。筋肉の研究では、収縮する筋肉は形を変えても体積は変わらないことを幾何学で示した。解剖の知識と化石の類似、トスカーナ地方の地形や地層の観察から、地層の生成を論じた書物を1669年に出した。この書は日本語では『プロドロムス―固体論』として訳されている。ここで知られるのが地層累重の法則で、堆積層は後の乱れがない限り、上の層ほど新しいという考え方である。同年、水晶の結晶を調べて、その面のなす角度が常に等しいことに気づいた。この発見は後世の結晶学の出発点とされる。
信仰の面では、ルター派からカトリックへ改宗した。年は1667年とも1669年ともいわれる。フィレンツェで神学を学び、1675年に司祭に叙階され、1677年に司教となって、ドイツ北部の数少ないカトリック教徒のために尽くした。晩年は科学の研究から離れていた。シュヴェリーンで没したとされ、1988年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって福者の位に上げられた。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・メンゴリ (1686年)
- シャルロッテ・フォン・ヘッセン=カッセル (1686年没)
- ルイ2世 (コンデ公) (1686年没)
- エレオノーラ・マグダレナ・ゴンザーガ (1686年没)
- カルロ・ドルチ (1686年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク (1808年没)
- ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク (1920年没)
- フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公) (1837年没)
- エンゲルベルト・フンパーディンク (1921年没)
- Daniel Sanders (1897年没)