伝記
バハルディン・ユスフ・ハビビは、1936年6月25日にインドネシアのスラウェシ島南部のパレパレで生まれた技術者であり、政治家である。父アルウィ・アブドゥル・ジャリル・ハビビは、ゴロンタロ出身でブギス・ゴロンタロ系の農学者、母R・A・トゥティ・マリニ・プスポワルドヨは、ヨグヤカルタ出身のジャワ人貴族の女性で、2人はボゴールで学ぶなかで出会った。8人きょうだいの4番目で、14歳のときに父を亡くした。幼いころ、南スラウェシに派遣軍司令官として赴任していたスハルトの知遇を得たとされる。
ジャワ島西部のバンドン工科大学に入学したが、留学のため中退した。当初はオランダのデルフト工科大学で航空工学を学ぼうとしたが、オランダとインドネシアの西ニューギニア領有をめぐる対立のため、西ドイツのアーヘン工科大学に移った。1960年に同大学を卒業して助手となり、軽量構造の研究室で博士号に向けた研究をした。1962年には病気療養で3か月ほど帰国し、中学・高校時代の知人だったハスリ・アイヌンと再会して、5月12日に結婚した。1963年5月に息子イルハム・アクバルが生まれ、同年に鉄道車両のメーカーに入社し、貨車の設計の助言役となった。1965年には超音速や極超音速の軽量構造に関する論文で、工学博士号を取得した。教授職などの誘いは断り、ハンブルクのメッサーシュミット・ベルコウ・ブロム社に入った。
同社では熱力学や構造、空気力学の理論をつくり、それぞれ「ハビビ係数」「ハビビ定理」「ハビビ法」と呼ばれるようになった。エアバスA300の開発にも参加し、1974年には副社長(技術応用部長)となって、1978年までその職にあった。1974年、スハルトに請われて帰国し、国営石油公社の総裁補佐官や、先端技術・航空工学担当の大統領補佐官に就いた。2年後には、新設された国営航空機会社の最高責任者となり、同社はヘリコプターや小型旅客機の製造を手がけるまでに成長した。1978年から1980年代末まで、研究技術担当国務大臣のほか、バタム工業開発庁長官や戦略産業庁長官などを歴任し、先端技術の育成を担う地位を築いた。1990年12月、インドネシア・イスラム知識人協会の設立とともに議長に就任した。
1995年8月10日、自ら開発を指揮した国産旅客機の飛行に成功し、独立50周年に花を添えた。ただし、この機を採算に乗せることはできず、1997年のアジア通貨危機で開発は中止されて、国費の無駄遣いだという批判を招いた。批判は国軍首脳や経済専門家からも聞かれたが、ハビビが先端工業の分野で地位を保てたのは、スハルトの強い支持があったからだとされる。1998年3月、スハルトが7選されると副大統領に就任したが、デモや暴動が相次ぎ、同年5月にスハルトは辞任を表明した。ハビビは任期途中で大統領に昇格し、これは副大統領としては初の例となった。
大統領としては、結社の自由や言論の自由を認める政策を矢継ぎ早に打ち出し、報道と政党に関する法律を自由化した。東ティモールの占領を終わらせ、その独立につながる道を開き、予定より3年早く民主的な総選挙を実施した。しかし「スハルトの子飼い」というイメージは拭えず、暫定政権とみる向きが強かった。1999年6月7日の総選挙では、率いたゴルカルが、メガワティ・スカルノプトゥリの闘争民主党に得票で及ばず、その後の大統領選びでは支持を失って、出馬を断念した。同年10月10日にワヒドが新大統領に選ばれ、在任は517日で終わった。2019年9月11日、83歳で亡くなった。
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