伝記
アブドゥルラフマン・ワヒドは、1940年9月7日に東ジャワ州のジョンバンで生まれたインドネシアの宗教指導者、政治家で、同国の第4代大統領を務めた。本名はアブドゥルラフマン・アッ=ダヒルといい、人々にはグス・ドゥルの通称で親しまれた。グスは「キアイ(イスラム指導者)の息子」を意味する敬称で、ドゥルは名前の短縮形である。父はのちに独立インドネシアの初代宗教大臣となったワヒド・ハシム、母はシティ・ソレハで、五人きょうだいの長男だった。父方の祖父ハシム・アシャリは、1926年にナフダトゥル・ウラマー(NU)を創設した人物で、母方の祖父ビスリ・シャンスリは女子の授業を初めて取り入れたイスラム教育者だった。先祖は福建省から移り住んだ客家の人とも伝わる。
1945年の独立宣言後はジョンバンにとどまり、独立戦争が終わった1949年に、父の大臣就任に伴ってジャカルタに移った。父は非イスラムの本や雑誌を読むよう勧め、視野を広げさせた。1953年4月に父が自動車事故で亡くなった。1954年に中学で進級できず、母の決断でジョグジャカルタに送られ、卒業後の1957年にマグランのイスラム寄宿学校に入った。通常4年の課程を2年で終え、1959年にジョンバンの寄宿学校に移って、教師となり、のちに校長も務めた。雑誌の記者もした。1963年に宗教省の奨学金でカイロのアズハル大学に留学したが、アラビア語の力を証明できず、補習を受けるよう言われた。1964年は授業よりも、ヨーロッパやアメリカの映画やサッカーを楽しんで過ごしたという。のちにイラクのバグダード大学でも学び、伝統的なイスラム世界の素養に加え、西洋の知にも近づいた。
1984年にNUの議長に就任した。以後、寄宿学校の改革や貧しい農村の発展に努め、スハルト政権には批判的な言論を展開しながら、直接の対立は避けた。国内の急進派には日和見と皮肉られたが、現実的な対応により、さまざまな立場を超えた信頼を得た。スハルト政権の崩壊後、ハビビ政権のもとで結社の自由が広く認められると、1998年7月に、NUを支持基盤とする民族覚醒党(PKB)を結成した。総選挙では、メガワティが率いる闘争民主党と協力し、与党ゴルカルと対決した。選挙ではメガワティの党が第1党、ゴルカルが第2党、PKBが第3党となり、メガワティの当選が予想されたが、各派の駆け引きの結果、1999年10月20日にワヒドが大統領に就任した。
在任中は、イスラエルを訪問し、スハルト政権下で長く禁じられた共産主義の解禁も提言したが、連立相手の闘争民主党やイスラム勢力から強い反発を受けた。2000年1月には、中国系の人々の春節の祝いを制限した大統領令を取り消し、儒教を6番目の公認宗教に加えて、少数者の権利を守ったため、「多元主義の父」と呼ばれた。連立政権内の基盤は弱く、2001年7月23日に大統領を罷免された。その後は政治の第一線を退き、穏健派として発言を続けた。緑内障のため左目は失明し、右目もほぼ失明に近く、物理的な障害のある大統領は同国で彼が初めてだった。1998年には脳出血で倒れたこともある。2009年12月30日、心不全のためジャカルタの病院で没した。死後の2025年11月10日には、インドネシアの国家英雄の称号を授与された。
同じ年に亡くなった人物
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- マリリン・チェンバース (2009年没)
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