伝記
アルヴィド・カールソンは、1923年1月25日にスウェーデンのウプサラで、4人きょうだいの1人として生まれた薬理学者である。父ゴットフリード・カールソンは歴史学者で、のちにルンド大学の歴史学教授となった。そのため一家はルンドに移り住んだ。上の2人のきょうだいは父と同じ道に進んだが、カールソンは医学を選び、1941年にルンド大学で学び始めた。第二次世界大戦のあいだ、スウェーデンは中立を守ったが、軍務のために教育は数年間中断された。1944年には、スウェーデンの貴族フォルケ・ベルナドッテがスウェーデンへ連れ出したナチスの強制収容所の囚人を診察する仕事にも加わっている。1951年に医学と薬理学の学位を取得し、同年にルンド大学の準教授となった。
その後、アメリカ合衆国メリーランド州ベセスダの国立心臓研究所で、薬理学者バーナード・ブローディのもとに研究員として5か月間滞在した。この経験をきっかけに研究の焦点が精神薬理学へ移ったことが、のちのノーベル賞につながったとされる。1959年にはヨーテボリ大学の教授になった。
1950年代、カールソンはドーパミンが、それまで信じられていたような単なるノルアドレナリンの前駆物質ではなく、脳内の神経伝達物質であることを実証した。1957年にはキャサリン・モンタギューが人間の脳にドーパミンが存在することを示しており、同じ年にカールソンも、これが脳の神経伝達物質であることを示した。さらに、脳組織内のドーパミン量を測る方法を開発し、運動に重要な部位である大脳基底核で、その量がとくに高いことを見いだした。続いて、動物にレセルピンという薬物を与えるとドーパミン量が減って運動の制御が悪くなることを示した。この症状はパーキンソン病に似ていた。ドーパミンの前駆体であるL-ドーパを動物に投与すると、症状は緩和された。この発見は、ほかの医師たちがパーキンソン病の患者にL-ドーパを試すきっかけとなり、病気の初期の症状のいくらかを軽減できることが分かった。L-ドーパは、現在も一般的な治療法の土台になっているという。
1970年代から1980年代には、製薬会社のアストラと協力した。同僚たちとともに、最初に市販された選択的セロトニン再取り込み阻害薬であるツェルミドを開発した。しかし、ギラン・バレー症候群という重い副作用が稀に見られたため、使われなくなった。ノーベル賞の受賞理由ではないものの、この研究は、のちに世界で最も多く使われる処方薬の一つとなるプロザックへの道を開いたとされる。90歳を超えても研究者として、また講演者として活動を続け、娘のレーナとともに、脳卒中後の疲労を和らげるドーパミン安定薬の研究に取り組んだ。
こうした研究により、2000年にエリック・カンデル、ポール・グリーンガードとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。それまでに、1975年にスウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれ、1979年にウルフ賞医学部門、1982年にガードナー国際賞、1994年に日本国際賞、1999年にイタリアのフェルトリネッリ賞を受けている。1945年にウッラ=リーサ・クリストフェションと結婚し、3人の息子と2人の娘に恵まれた。水道水へのフッ素添加には反対し、ホメオパシーの薬品が医薬品として扱われることに反対する立場を、強く表明していた。2018年6月29日、95歳で亡くなった。
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