伝記
ヤズデギルド1世は、サーサーン朝の君主(シャーハーン・シャー)で、在位は399年から420年。シャープール3世の息子であり、兄弟のバハラーム4世が暗殺された399年に後継者となった。名は古代イラン語の「神」と「創造した」の組み合わせで、「神が創造した」を意味する。
先任者であるアルダシール2世、シャープール3世、バハラーム4世の三人がいずれも貴族に殺害された混乱の帝国を引き継いだが、これらの先任者より有能で、治世はサーサーン朝の歴史において再生の時代とみなされている。高位の貴族の大部分は、イラン高原を中心とする強力なパルティア系の家系に属し、王の封建的軍隊の根幹を担いながら、ほとんど自律的な存在だった。王がこれを制御することは難しく、力を制限しようとすれば大きな犠牲を伴った。ヤズデギルド1世の治世の後半には、パルティア系の有力貴族スーレーン家が王の強い影響力を持つ協力者となり、国政で重要な役割を担った。
東ローマ帝国に対しては一貫して平和的な政策を保った。当時ローマは東ゴート族のバルカン襲撃やフランク族の反乱、内戦、東方属州の暴動に見舞われていたが、ヤズデギルド1世はその弱みに付け入らず、フン族に対する勝利の後に救出したキリスト教徒の捕虜をローマ領へ帰した。皇帝アルカディウスは、この寛大さに感じて幼い息子テオドシウス(のちのテオドシウス2世)の継承を確保するため、後見を求めたと伝えられる。ただしこの話を述べるのは6世紀の歴史家プロコピオスだけで、同時代のアガティアスは、当時の記録にそのようなものはないと疑問を呈した。プロコピオスによれば、ヤズデギルド1世はローマの元老院に書簡を送って保護者となることを受け入れ、テオドシウスを危険にさらそうとする者には戦争を起こすと脅し、教育のために優れた助言者を派遣した。
宗教面では、自身はゾロアスター教を信奉しながら、キリスト教徒やユダヤ教徒に寛容だった。東ローマ帝国の主教の助言を得て410年に東方教会を公認し、これによってペルシア教会が確立され、424年にはローマ帝国内の教会からの独立が宣言された。この布告は、ミラノ勅令のサーサーン朝版とも呼ばれる。ゾロアスター教徒が土地を汚すと考えたキリスト教徒による死者の埋葬も認めた。クテシフォンの総主教を、ファールスの総督を務めていた兄弟との間の仲裁者に派遣し、別の総主教をテオドシウス2世への大使とした。ユダヤ人も厚遇し、ユダヤ人の妻ショーシャンドゥフトがいて、その要望でエスファハーンにユダヤ人を移住させたとも書かれる。こうした寛容のため、キリスト教徒やユダヤ教徒からは「新たなキュロス大王」と呼ばれた。
しかし、平和的な政策は国内の貴族とゾロアスター教の聖職者に嫌われ、ペルシアやアラブの史料では「罪人」と呼ばれた。治世の終わりの419年か420年ごろ、ホルモズド=アルダシールの主教アブダスと一団がゾロアスター教の火の神殿を破壊した。王がアブダスを問い質したが、再建を拒まれて、アブダスらは処刑された。聖職者からの圧力に屈した王は、キリスト教徒への政策を改めて短期間の迫害を命じたといわれる。最終的に北東部の辺境で貴族に暗殺された。貴族たちは王の息子たちの即位を阻もうとし、アルメニアから急ぎ戻った長男シャープール4世を即位後すぐに殺してホスローを擁立したが、もう一人の息子バハラームがアラブ人の軍を率いて圧力をかけ、バハラーム5世として即位した。
同じ年に亡くなった人物
- Eustochium (420年)
- カスティヌス (420年(推定))
- ポルフュリオス (420年没)
- スルピキウス・セウェルス (420年)
- Nemesius (420年)
同じ地域に関係する人物
- サラーフッディーン・アリー・ヤズディー (1454年没)
- Hassan Zirak (1972年没)
- アルセス (紀元前336年没)
- アラーウッディーン・テキシュ (1200年没)
- マスウード・ラジャヴィー (2003年没)