伝記
ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキーは、1928年3月28日に生まれ、2017年5月26日に没したアメリカ在住の政治学者である。ポーランド出身で、カナダで育ち、1958年にアメリカの市民権を得た。1966年から1968年までリンドン・ジョンソン大統領の顧問を務め、1977年から1981年まで、カーター政権の第9代の国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたことで知られる。
ポーランドのワルシャワで、名門の貴族階級シュラフタに属するブジェジンスキ家に生まれた。家は、現在ウクライナ領のブジェジャヌィを故地とし、3つのホルンをあしらった紋章を持つ。外交官だった父タデウシュは1931年から1935年までベルリンに赴任し、ズビグネフも父とともにドイツで過ごして、ヒトラー率いるナチス党の台頭を目撃した。その後、一家は父のモスクワ赴任に伴って、スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れるソ連に移った。1938年に父がカナダに赴任して一家も移り、1939年にドイツがポーランドに侵攻したため、帰国できなくなった。戦後も、共産主義者が祖国を支配したため、帰国は実現しなかった。カナダで成長して、マギル大学で学部と修士課程を修了し、ハーバード大学大学院に進んだ。欧州からの移住者であった政治学者のカール・フリードリッヒに師事し、1953年に博士号を取得した。のちに駐日大使となるエドウィン・O・ライシャワーにも学んだ。ハーバード大学で教えたが、終身雇用の資格が得られず、コロンビア大学に移り、1960年から1989年まで教授として共産圏の政治と外交を研究した。
1950年代から、ソ連の政治体制を、全体主義イデオロギーの支持、一党独裁、秘密警察の浸透、マスコミの体制による支配、武力の独占、中央集権的な統制経済といった特徴を持つ「全体主義体制」の1つと位置づけ、従来の独裁や権威主義の体制とは異なると論じた。この研究は、同時代にハンナ・アーレントが発表した『全体主義の起源』などと呼応し、体制間の比較研究の地平を開いた。1971年に日本に半年間滞在し、急速に成長した日本は、政治や外交ではまだ独立して行動する力を持たない「ひよわな花」だと論じて、日本で大きな注目を浴びた。1960年の大統領選挙以降は、民主党の候補者陣営で外交問題の顧問を務め、日米欧三極委員会の創設にも携わった。
1976年の大統領選挙でカーターの外交政策顧問を務め、政権の発足後に、国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任した。反共主義者でありながら、中華人民共和国との国交正常化に取り組んだ。ハト派の多い民主党の中では異色のタカ派と見られ、ソ連のアフガニスタン侵攻を受けて、ムジャヒディンの支援や中東への軍事介入を掲げる方針を策定した。国務長官サイラス・ヴァンスと外交政策をめぐって対立することが多く、1979年のイランのアメリカ大使館人質事件の対応で対立が決定的になり、カーターの信任を得たのはブレジンスキーで、ヴァンスは1980年に辞任した。ポーランドの独立自主管理労組「連帯」を積極的に支持し、同郷のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合ったとされる。政権の退陣後も、現実の政治と深く関わり続けた。2008年の大統領選では、バラク・オバマ陣営の外交顧問を務め、2013年にはシリア内戦へのアメリカの軍事介入に反対した。2016年にアメリカ国防総省の公共サービス栄誉賞を受賞し、2017年5月26日に、バージニア州の病院で89歳で死去した。長女のミカは、テレビのニュースキャスターとして知られる。
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