伝記
フランソワ・マンサールは、1598年1月23日にパリで生まれ、1666年9月23日に同地で没したフランスの建築家である。ルイ13世からルイ14世の時代にかけて活躍し、フランス古典主義を大成した人物とされ、フランス・バロック建築の第一人者の一人にも数えられる。
生まれはサン・ヴィクトル地区で、父は王に仕える大工の親方アブサロン・マンサール、母はミシェル・ル・ロワであった。七人きょうだいの六番目だったが、父は1610年、彼が12歳のときに世を去った。一族の助けで石工と彫刻家としての修業を積み、1612年から1617年まではレンヌの彫刻家で建築家のジェルマン・ゴーティエに学び、その折にサロモン・ド・ブロスやシャルル・デュ・リと知り合った。1618年から1621年には、叔父マルセル・ル・ロワの代理として、ルメルシエの設計によるトゥールーズのポン・ヌフの再建に携わり、これが修業の締めくくりになった。イタリア留学の機会はなく、蔵書の豊富な自分の書庫でフランスとイタリアの建築を学んだという。
最初の目立った仕事は1623年のフイヤン会修道院聖堂の正面の設計で、サロモン・ド・ブロスのサン・ジェルヴェ教会に強く触発された作品であった。同じ年にベルニー城の改築にも加わり、これを気に入ったオルレアン公の宰相ジャン・ド・ショワジーが、1626年にバルロワ城の建築を任せた。1631年に完成したこの城には、角錐状の量塊、頂部に採光塔をのせた切り詰めの屋根、石造の吊り階段といった彼の特徴がすでに現れている。1634年にはオルレアン公ガストンに呼ばれて新しいブロワ城の造営にあたったが、巨大な計画は1638年に未来のルイ14世が生まれ、ガストンが王位継承者でなくなったために放棄され、現在のガストン棟だけが完成した。この棟の中央棟には、1階の扉口、2階のペディメント、3階上の屋根がそれぞれ正三角形の構図をなす、マンサールの三段構成と呼ばれる手法が見られる。最高傑作とされるのは、1630年から1651年にかけて手がけたメゾンの城館である。厳密な左右対称と各階の付け柱によって立体的なまとまりを備え、過剰な装飾を避けたところに特徴がある。ほかに1651年から1655年にアンリ・ド・ゲネゴーのために建てたゲネゴー館があり、これは現在もパリに完全な姿で残る唯一の作品である。
作風は、古代建築を手本にして高貴さと荘厳さを表現しようとするもので、全体の平面の構想において彼にまさる者はいないとまで言われた。一方で、当時の人々からは、威厳を誇張しすぎて、フランソワ1世の時代の優雅さから遠ざかっているとの非難も受けた。それでも自分の様式へのこだわりを捨てず、他方では才能に対して謙虚で、専門家に称賛された図面にも満足せず、常により完全な形を求め続けたと伝えられる。
彼はマンサード屋根を多用して広めたことでも知られ、その名はこの屋根の呼称の由来となった。ただし、この形式は16世紀にもピエール・レスコーの作品に見られ、彼が考案したわけではない。巧みに用いたために名前が冠されたのである。後にはジョルジュ・オスマンによるパリ改造で、屋根の統一モデルとして使われた。彼の建てた多くの建物は取り壊されたり建て替えられたりして失われ、現在はペローが残した作品の一覧や版画で知られるものが多い。ヴァル・ド・グラース教会堂のほか、カルナヴァレ館の正面などが残る。その作風は、オーストリアのフィッシャー・フォン・エルラッハや、1666年にパリで彼と会ったとされるイギリスのクリストファー・レンにも影響を与えたという。
同じ年に亡くなった人物
- シャー・ジャハーン (1666年没)
- アダム・シャール (1666年没)
- 宋応星 (1666年)
- グエルチーノ (1666年没)
- ジェームズ・シャーリイ (1666年)
同じ地域に関係する人物
- ルイ=ジャン=フランソワ・ラグルネ (1805年没)
- Jacques Bernard Hombron (1852年没)
- ジャン・シメオン・シャルダン (1779年没)
- シャルル・ド・フレシネ (1923年没)
- ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティ (1759年没)