伝記
ニコラ・プッサンは、1594年にフランスのノルマンディー地方、レ=ザンドリに近いヴィレ村で生まれ、1665年11月19日に没したバロック時代のフランスの画家である。17世紀のフランスを代表する画家だが、画家としての生涯の大半をローマで過ごした。父は地方の小貴族で、彼が生まれたのは父がすでに60歳近い時だったとされ、恵まれた少年時代ではなかったようだ。
修業時代は史料が乏しい。伝記作者のベッローリによれば、ラテン語を含む教育を受けた。友人でもう一人の伝記作者フェリビアンは、彼がスケッチ帳に、想像だけから生まれた無数の人物を、絶えず描き込んでいたと報告している。この素描が、画家カンタン・ヴァランの目に留まったとされる。両親は画家になることに反対したらしく、1612年ごろ、18歳でパリへ出た。当時のパリでは、王妃マリー・ド・メディシスの注文などで美術が栄えていた。彼は画家と彫刻家の有力な組合に属しておらず、名を売ろうとする外部の者として苦労した。素描が認められてフランドル出身の画家フェルディナン・エルの工房に3か月ほど入ったが、肖像画中心の仕事は興味に合わず、ジョルジュ・ラルマンの工房でもなじめなかった。数人で1枚の絵を描く工房の仕組みが合わず、以後はゆっくり独りで描くことを好んだ。パリでは借金を重ね、返せなかった記録が残る。解剖学や遠近法を学び、王妃の侍従アレクサンドル・クルトワとの交友で王室の美術コレクションに接し、ジュリオ・ロマーノやラファエロの版画を見て、これが将来の作風に大きな影響を及ぼした。1617年か1618年にローマを目指してフィレンツェまで行ったが、事故で引き返し、1622年にもリヨンまで行って戻った。同年、イエズス会から、創立者フランシスコ・ザビエルの列聖を祝う大作6点の注文を受け、その力強さで評判を得た。
1624年、29歳でローマに出た。当時の高名な詩人マリーニの助力があったという。ローマでは教皇ウルバヌス8世の甥にあたるフランチェスコ・バルベリーニ枢機卿や、その秘書で自由思想家のカッシアーノ・ダル・ポッツォの知己を得た。とくにポッツォの思想は、制作に大きな影響を及ぼした。ラファエロら盛期ルネサンスとバロックの画家を学び、小さな画面の宗教画や神話画、歴史画の注文を受けて、独自の様式を築いていった。バルベリーニ枢機卿を通じてフランスへ送られた絵で、名声は母国にも広まった。
1640年、ルイ13世の親書に呼ばれて帰国し、国王の首席画家となったが、膨大な仕事と宮廷の陰謀に不満を抱き、2年足らずでローマへ戻った。作品は、バロックの激しい感情や劇的な明暗が抑えられ、古典主義的で思想的背景の深い歴史画や宗教画が多い。代表作『アルカディアの牧人たち』(1638年から1639年ごろ)は、墓石のそばにたたずむ4人の人物が、「我もまたアルカディアにあり」の銘の意味を知って戸惑う姿を描き、死はどこにでもあるという教訓を表すと解される。ルイ14世はこの絵を購入し、死ぬまで身近に置いた。1648年ごろからは英雄的風景と呼ばれる荘重な風景画を、1650年代後半からは寓意的な神話的風景を描き、晩年の作に『日の出を探す盲目のオリオン』や『四季』がある。ダヴィッドやアングル、セザンヌら、古典を志向する画家に影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ロレンツォ・リッピ (1665年没)
- クリスティアン・ルートヴィヒ (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1665年没)
- セザール・ド・ブルボン (ヴァンドーム公) (1665年没)
- ケネルム・ディグビー (1665年)
- ステファン・チャルニェツキ (1665年没)
同じ地域に関係する人物
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- ピエル・フランチェスコ・モーラ (1666年没)
- スーゾ・チェッキ・ダミーコ (2010年没)
- スウェーデンのビルギッタ (1373年没)
- Agostina Livia Picapiedra (1894年没)