伝記
アレクサンドリアのテオンは、エジプトのアレクサンドリアで活動したギリシアの学者であり、数学者・天文学者・哲学者である。生没年は335年頃から405年頃とされる。ユークリッドの『原論』を編纂し、ユークリッドやプトレマイオスの著作に注釈を書いた人物として知られ、娘は数学者のヒュパティアである。日本語の解説では、アレクサンドリア図書館の最後の所長とも紹介される。
その生涯についてはほとんど分かっていない。364年に日食と月食の予測と観測を行っており、この頃に活動していたことが確かめられる。テオドシウス1世の治世(379年から395年)に生きたともいわれる。10世紀のビザンツの百科事典『スーダ』は、テオンを「ムセイオンの人」と呼ぶ。しかし、アレクサンドリア図書館も本来のムセイオンも3世紀には衰えて閉じたとされ、古典学者のエドワード・ワッツは、テオンはかつてのムセイオンにならって名づけられた学校の長であったと考えている。この学校は排他的で威信が高く、教義の面では保守的だった。テオンも娘のヒュパティアも、セラピス神殿で教えていた好戦的なイアンブリコス派の新プラトン主義者とは関係がなく、プロティノス流の新プラトン主義を好んだようだとされる。
一方、図書館については次のように語られている。391年、アレクサンドリアのキリスト教司教テオフィロスの求めに応じて、ローマ皇帝テオドシウス1世が非キリスト教の宗教施設や神殿を破壊する許可を与えた。そのためキリスト教徒の暴徒によって図書館が破壊されたという。415年には、テオンの娘ヒュパティアも虐殺された。ヒュパティアは父の跡を継いで学校の長となった。テオンは『アルマゲスト』の注釈をエピファニオスという少年に捧げており、この少年は息子であったかもしれないとされる。同じ注釈の中で、第3巻については「哲学者である私の娘ヒュパティアが整えた版」によると述べている。
テオンの業績としては、まず『原論』の編纂がある。1808年にフランソワ・ペイラールがヴァチカン図書館で古い写本を見つけるまで、知られていた『原論』はテオン版だけだった。二つの版を比べると、テオンの版は学ぶ者が感じかねない難しさを取り除こうとしており、議論が短すぎると思えば補い、書き方を統一し、誤りを正した。ときには自分の誤りを持ち込むこともあった。ほかにプトレマイオスの『簡易表』やユークリッドの『光学』の編集もテオンの仕事とされてきたが、証拠は確実ではない。
注釈書では、『ユークリッドのデータ』『ユークリッドの光学』『アルマゲスト』への注釈が残る。『アルマゲスト』の注釈は全13巻を対象としていたが、第11巻と第5巻の大部分が失われている。パッポスなど失われた著者の情報を含み、六十進法による計算のギリシア流の方法を伝える点でも有用である。『簡易表』には大小二つの注釈があり、小注釈では、春分点の歳差が一定ではなく640年ごとに向きを変えるという古代の占星術師の説を紹介している。テオンはこの説を述べただけで支持はしなかったが、9世紀のサービト・イブン・クッラが振動説を考えるきっかけになった。『簡易表』の解説の中で至点が黄道上を往復する理論を初めて示した、ともいわれる。アストロラーベについて論じた著作も、『スーダ』とアラビア語圏の記述が彼のものとしているが、現存しない。月のクレーターに、テオンの名を冠したものがある。
同じ年に亡くなった人物
- Jovinian (405年)
- John the Dwarf (405年)
- 阿莘王 (405年没)
- 顧愷之 (405年没)
- Arsacius of Tarsus (405年)
同じ地域に関係する人物
- ムスタイーン (1430年没)
- アレクサンドリアのキュリロス (444年没)
- ビュザンティオンのアリストパネス (紀元前179)
- イブン・ジュバイル (1217年没)
- メレティオス (メタクサキス) (1935年没)