伝記
シモン・ペレスは、1923年8月2日にポーランドのヴィシェニェフ(現在のベラルーシ)で生まれたイスラエルの政治家である。出生時の名はシモン・ペルスキといった。第9代の大統領を務め、首相も二度務めた。1948年の建国のころから政治の舞台に立ち続け、「イスラエル建国の父の一人」と評された。1934年に家族とともにイギリス委任統治領パレスチナのテルアビブへ移り、テルアビブのゲウラ学校と、農業学校で学んだ。
1947年にハガナー(のちのイスラエル国防軍の前身)に徴用され、ダヴィド・ベン=グリオンによって、隊員の募集と武器購入の責任者に指名された。1950年代の初めにはアメリカに留学し、ニュースクール大学やニューヨーク大学、ハーバード大学で、英語、経済学、心理学、経営学などを学んだ。1952年に国防次官に就任し、建国間もないイスラエルのための武器調達に努めた。フランスからのダッソー・ミラージュIIIの戦闘機や、原子炉の購入にも大きく貢献した。政治家としての初期には、ユダヤ人とアラブ人の居住区域の分割を提案した一人で、当初は、ヨルダン川西岸地区へのユダヤ人入植も支持していた。和平を追求する理由は、心の苦痛からではなく、イスラエルに安全をもたらすために必要だからだと公言していた。
第四次中東戦争の後の労働党党首選に出馬したが、イツハク・ラビンに敗れた。ラビンが首相を辞したあとは党首となったが、総選挙で敗れ、右派政党リクードのメナヘム・ベギン政権の誕生を許した。リクードとの挙国一致内閣で、1984年から1986年まで第9代の首相を務めた。1992年の党首選で、再びラビンに敗れたが、ラビンは総選挙でリクードのイツハク・シャミルから政権を奪った。首相に就いたラビンは、ペレスを外務大臣に任命し、ヤーセル・アラファト率いるパレスチナ解放機構との和平交渉を進めさせた。ペレスの尽力で合意がなされ、オスロで「暫定自治政府原則の宣言」(オスロ合意)が結ばれた。1994年にはヨルダンとの平和条約にも調印した。これらの功績により、ペレスは、ラビン、アラファトとともに、1994年のノーベル平和賞を受賞した。
1995年11月4日、ラビンが、和平に反対するユダヤ人青年に射殺されると、副首相・外相だったペレスが首相代行に就任した。弔問に訪れた各国の首脳に対し、「和平の推進が究極の使命」と述べ、ラビンの路線を引き継ぐことを明言した。しかしレバノンのヒズボラの攻撃への反撃で民間人に死傷者が出るなど、様々な圧力にさらされ、1996年の首相公選では、ベンヤミン・ネタニヤフに1%の差で敗れた。直前まで支持率で10ポイントもリードしていたが、テレビの討論会で逆転されたという。2000年の大統領選でも、勝利が確実視されながら、モシェ・カツァブに敗れた。党首としては4回の総選挙に敗れ、軍歴の乏しさもあり、選挙には強くなかったと評される。
その後は、ペレス平和センターなどの活動に重心を移し、シャロン政権で外務大臣も務めた。2005年にはシャロンらとともに労働党を離れ、中道政党カディマを結成した。2007年6月13日の大統領選で、国会での投票でルーベン・リブリンを破り、第9代の大統領に当選した。2009年1月のダボス会議では、ガザ紛争をめぐり、トルコのエルドアン首相と激しい口論になった。2014年7月24日に大統領を退いた。2016年に心臓の不調で入院し、9月13日に脳卒中で運ばれて、9月28日、テルアビブで、93歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- モーリス・ホワイト (2016年没)
- Suat Mamat (2016年没)
- ゴーディ・ハウ (2016年没)
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- ニコール・クールセル (2016年没)
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- メナヘム・ベギン (1992年没)
- イツハク・ラビン (1995年没)