伝記
メナヘム・ベギンは、1913年8月16日、ロシア帝国領のブレスト・リトフスク(現ベラルーシのブレスト)に三兄弟の末子として生まれた。父は木材の貿易商で、テオドール・ヘルツルから賞賛されるほど熱心なシオニストだったという。幼い頃はヘデルでユダヤ教の初等教育を受け、12歳でハショメル青年部に所属し、14歳からはポーランドの学校で西洋古典文学を学んでラテン語を読めるようになった。のちにワルシャワ大学で法律学を学び、ここで鍛えた弁舌が政治家としての特徴になっていく。1935年に卒業し、同年、青年運動組織ベタルとイルグンの創始者ゼエヴ・ジャボチンスキーに出会った。22歳でクラクフのベタル世界会議の壇上に立って熱弁を振るい、ポーランドのベタルで有力な指導者とみなされるようになった。
1939年9月、ナチスドイツのポーランド侵攻を受けてリトアニアのビリニュスへ亡命したが、1940年6月にソ連軍が侵攻し、多くのユダヤ人とポーランド人が連行された。ベギンは同年9月、「イギリス帝国主義の扇動」を理由に禁固8年を言い渡されて強制収容所に送られ、1941年6月にはロシア北部ペチョラの強制労働収容所へ移った。同年7月にシコルスキ=マイスキー協定が結ばれると解放され、ソ連領内で編成されたアンデルス軍団に加わり、1942年8月にペルシア回廊を経てパレスチナに着いた。一方、故郷では1941年6月、約5000人のユダヤ人とともに家族がナチスに捕らえられ、父は射殺されるか川に沈められ、母と兄のヘルツルもホロコーストで殺害されたという。
パレスチナではイルグンへの加入を求められ、軍への宣誓を理由に初めは断ったが、退団が認められて入隊し、1947年頃には指導者となった。バルフォア宣言とそれに矛盾するマクドナルド白書を挙げて、イギリス軍をパレスチナから追い出すことを決意し、反乱を宣言した。イルグンはエルサレムのキング・ダヴィデ・ホテルを爆破し、この事件はイギリス軍人や役人に加えアラブ人とユダヤ人の民間人も含む91人の死者を出した。ベギンはラビに変装して追及を逃れ続け、生死を問わず1万ポンドの賞金をかけられた。ベン=グリオンは「ユダヤ人民の敵」とまで批判した。1948年4月にはデイル・ヤシーン村を襲撃して多数のパレスチナ人死者を出し、同年にはイルグンの武器輸送船アルタレナ号をめぐってイスラエル国防軍と衝突し、船は撃沈され、イルグンは政府の指揮下に置かれた。
1948年8月、ベギンは元イルグン幹部らと右翼政党ヘルートを結成した。これがのちのリクードの根幹となる。同年11月の訪米中にはアインシュタインら著名なユダヤ系の人々が、ヘルートはファシズム政党だと批判する書簡をニューヨーク・タイムズに寄せた。1952年には西ドイツへの賠償請求に反対するデモを扇動して負傷者が出て、数か月間、議会への出入りを禁じられている。1967年6月に無任所相として初入閣し、1977年5月17日に首相となった。建国以来、労働党以外から出た初の首相である。
首相としてエジプトのサダト大統領をエルサレムに招き、1978年にキャンプ・デービッドで和平合意を結び、同年ノーベル平和賞を受けた。1981年にはイラクの原子炉攻撃を命じ、1982年6月にはレバノン戦争を開始したが、サブラー・シャティーラ事件が明らかになると国際的な孤立が深まった。戦争での大損害と妻の死を経て、1983年9月15日に辞表を提出し、引退後は娘と暮らして親しい友人としか会わず、1992年にエルサレムで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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