伝記
エリ・ヴィーゼルは、1928年9月30日、当時ハンガリー系の住民が多かったシゲト(現在のルーマニアのシゲトゥ・マルマツィエイ)に、ヴィーゼル・エリエーゼルとして生まれた作家である。両親は、父シュロモと母サラ・ファイクで、家庭では主にイディッシュ語を話し、ドイツ語、ハンガリー語、ルーマニア語も使った。食料品店を営む正統派のユダヤ教徒の家で、幼いころからヘブライ語やトーラー、カバラを学んだ。父は息子に人道主義の心を植えつけ、ヘブライ語や文学を学ぶよう勧めた。母は、トーラーを学ぶよう促した。彼は、父は理性を、母は信仰を象徴していたと語っている。きょうだいは三人の姉妹で、姉のベアトリスとヒルダ、妹のツィポラがいた。
1944年3月にドイツがハンガリーを占領すると、ホロコーストは北トランシルヴァニアにも及んだ。15歳だったヴィーゼルは、家族とともに、町のユダヤ人全体と同様に、生まれ育ったシゲトに設けられた二つの隔離地区の一つに入れられた。同年5月、ハンガリー当局はドイツの圧力の下で、ユダヤ人共同体をアウシュヴィッツ強制収容所へ移送しはじめ、そこでは到着した人々の最大9割が殺されたという。アウシュヴィッツに送られた直後に、母と妹はガス室で殺された。ヴィーゼルは父とともに、働ける間は労働に使われた。のちに父とともにブーヘンヴァルト強制収容所に移され、そこで終戦を迎える前に父が亡くなった。左腕には囚人番号A-7713の刺青を彫られた。収容所が1945年4月11日に解放されたのは、一行が移送の準備をしていたときだった。
戦後はフランスの孤児院に送られてフランス語を学び、そこで生き残った姉二人と再会した。1948年にソルボンヌ大学に入学して哲学を専攻し、ヘブライ語の教師や合唱団長などを経て、ジャーナリストになった。イディッシュ語やフランス語で、イスラエルやフランスの新聞に寄稿したが、戦後11年のあいだ、ホロコーストの体験だけは書く気になれなかった。友人のフランソワ・モーリアックに勧められて書きはじめ、小説『夜』を出版したが、モーリアックの後押しがあっても、当時はほとんど売れなかった。1955年にイスラエルの新聞の通信員としてニューヨークに移り、1963年にアメリカに帰化した。
生涯に57冊の本を書き、おもにフランス語と英語で執筆した。証言者として、ホロコーストについて語り続け、ソ連のユダヤ人や、南アフリカのアパルトヘイト、ルワンダやボスニアの虐殺など、世界各地の不正の問題に取り組んだ。ボストン大学の人文学の教授を務め、1993年に開館した米国ホロコースト記念博物館の設立を主導した中心人物の一人でもあった。1986年にノーベル平和賞を受賞した。「愛の対義語は憎しみではなく無関心だ」という言葉で知られる。一方、パレスチナ問題でイスラエルばかりを支持し、パレスチナ人の苦しみから目を背けているとして、言語学者のノーム・チョムスキーに批判され、政治学者のノーマン・フィンケルスタインには講演料が法外だと非難された。一部のユダヤ人社会からも批判を受けた。2016年7月2日、ニューヨーク市の自宅で亡くなった。87歳だった。
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