伝記
エリア・カザンは、本名をエリアス・カザンジョグルといい、1909年9月7日、オスマン帝国の首都イスタンブールで、ギリシャ系の家庭に生まれた。両親はアナトリアのカイセリの出身で、姓はトルコ語の「カザンジュ(鍋作り)の子」に由来する。1913年、4歳のときに両親とともにアメリカへ移り、父はニューヨークで絨毯の輸入販売を手がけた。のちに家族はニューヨーク州ニューロシェルへ移っている。内気な子で、大学では一人でいることが多い学生と見られていた。マサチューセッツ州のウィリアムズ・カレッジを、給仕や皿洗いで学費を稼ぎながら優等で卒業し、その後イェール大学で演劇を学んだ。幼いころの体験は、のちに自伝的な小説『アメリカ、アメリカ』に描かれた。
1930年代にニューヨークの劇団「グループ・シアター」に入り、俳優として舞台に立った。このころアメリカ共産党に短期間入党していた。グループ・シアターは、スタニスラフスキーの演技理論を俳優の指導に採り入れており、これがのちの「アクターズ・スタジオ」と「メソッド」の誕生につながった。1942年に演出したソーントン・ワイルダーの戯曲『危機一髪』はピューリッツァー賞を得て、演出家として頭角を現した。1944年には『ブルックリン横丁』でハリウッドに進出し、1947年にはユダヤ人問題を扱った『紳士協定』を監督して、アカデミー賞の作品賞、監督賞などを得た。同じ1947年、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』を演出し、マーロン・ブランドらを主演にバリモア劇場で初演して大成功を収め、同年にリー・ストラスバーグらとともに、俳優養成の学校「アクターズ・スタジオ」を創設した。ここからブランドやジェームズ・ディーンらが出ていった。
1949年にはアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を演出した。映画版の『欲望という名の電車』(1951年)も監督し、これもアカデミー賞の4部門に輝いた。冷戦下で赤狩りが吹き荒れるなか、1952年に下院非米活動委員会から元共産党員として嫌疑をかけられたカザンは、これを否定するために司法取引に応じ、友人の劇作家、演出家、映画監督、俳優ら11人の名前を挙げた。そこにはリリアン・ヘルマンやダシール・ハメットも含まれていた。それ以降も活動は続けられたが、この告発は、のちの経歴と作風に暗い影を落とした。同年の『革命児サパタ』には共産主義への批判の意図を込めたといわれる。1954年の『波止場』はアカデミー賞の作品賞を含む8部門を受賞し、1955年の『エデンの東』はジェームズ・ディーンの出世作となった。1963年には『アメリカ アメリカ』を自ら脚本・監督で映画化し、1976年の『ラスト・タイクーン』を最後に一線を退いた。
1988年に自伝を出版し、問題の過去にも触れた。1990年代末に長年の功績によりアカデミー名誉賞を贈られたが、赤狩り時代の行動を批判する映画人からブーイングを浴び、授賞式では起立して拍手する者と座ったままの者とに分かれた。会場の外では、授与の賛成派と反対派がそれぞれデモを行った。2003年9月28日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ビビ=アンネ・フルテン (2003年没)
- ジャック・ドレー (2003年没)
- アルフレッド・アストン (2003年没)
- ルードルフ・ブルネンマイアー (2003年没)
- Wolfgang Larrazabal (2003年没)
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