HISTORICAL PERSON · 2015年没

マルコム・フレーザー

オーストラリアの政治家。25歳の最年少で下院議員となり、陸軍相、国防相などを歴任。1975年から1983年まで第22代首相を務めた。

生涯
2015年没
死亡地
オーストラリア連邦(ビクトリア州 / メルボルン)
出生地
オーストラリア連邦(トゥーラック)
出典
世界地図
オーストラリア連邦(ビクトリア州)

伝記

ジョン・マルコム・フレーザーは、1930年5月21日にオーストラリア、ビクトリア州メルボルン近郊のトゥーラックに生まれた政治家で、第22代首相(1975年から1983年)を務めた。実家は羊牧場を持ち、そこで育った。オックスフォード大学のモードリン・カレッジで、哲学や政治学、経済学を学んで、1952年に学位を得た後、ビクトリア州西部にある実家の所有地を継ぐために帰国した。1954年の総選挙では落選したが、翌年の総選挙でワノン選挙区から出馬して初当選し、25歳でオーストラリア史上最年少の下院議員の一人となった。

1966年、ハロルド・ホルト政権で陸軍相となり、次のジョン・ゴートン政権でも、文部科学相(1968年から1969年)、国防相(1969年から1971年)を務めた。1971年に閣僚を辞任し、ゴートンを「首相という大任にふさわしくない」と批判して、ゴートンの辞任とウィリアム・マクマホン政権の誕生をもたらした。マクマホン政権では、再び文部科学相となった。1972年の総選挙で自由党と国民党の保守連合が敗れると、自由党の党首に立候補したが、ビリー・スネッデンに敗れた。1974年の総選挙でも保守連合が敗れると、スネッデンを引きずり下ろす動きを始め、翌1975年3月に党首に就任した。

野党の党首として、上院で野党が優位を占めていることを利用し、ゴフ・ホイットラム政権の予算案の通過を阻止して、1975年の憲政危機を引き起こした。この危機は、ジョン・カー総督がホイットラム首相を罷免するというオーストラリア史上初の措置で決着した。一連の危機におけるフレーザーの行動が正しかったか、総督の決定にどの程度関わったかについては、今も議論が続く。前任者の罷免に伴って首相になったオーストラリア史上唯一の人物でもある。フレーザーは当初、職務代行の形で首相に就任した。1975年の総選挙で保守連合は地滑り的な勝利を収め、1977年と1980年にも勝った。

首相としては外交を重視し、ほとんどの歴代首相より活発に国際的な舞台で動いた。1976年には、日本との間に日豪友好協力基本条約を結んだ。多文化主義の強い支持者で、任期中に、南ベトナムからのボートピープルを含む多くの非白人移民を初めて大量に受け入れ、白豪政策を事実上終わらせた。公共放送のスペシャル・ブロードキャスティング・サービスも設立した。南アフリカのアパルトヘイトにも反対した。一方、経済政策ではほとんど大きな変更を行わず、任期の終わりには、党内の経済合理主義者や財政保守派と衝突した。

1983年の総選挙に敗れて政界を引退し、その後は国際連合やイギリス連邦で役職を務めた。1990年から1995年まで、援助団体ケアの理事長でもあった。2006年に旭日大綬章を受けた。2009年にトニー・アボットが自由党の党首になると、党の方向性への批判から離党した。首相としての在任期間は、メンジーズ、ハワード、ホークに次ぐ歴代4位である。評価は分かれ、混乱の後にオーストラリアに安定を取り戻した功績や、多文化主義への取り組みは評価される一方、就任の経緯は今も論争の的である。2015年3月20日に死去した。

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