伝記
マイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤは、1925年11月20日にモスクワで生まれたバレエダンサーで、20世紀最高のバレリーナと称された。生まれたのは、芸術家を多く出したユダヤ系の一家である。父ミハイルは技師で、外交官や炭鉱の責任者も務め、母ラヘリは無声映画の女優、母方の伯父アサフ・メッセレルはボリショイ・バレエの主要なダンサー、伯母スラミフィ・メッセレルはボリショイの花形バレリーナだった。1932年から4年間、父が炭鉱の監督のため赴任したスピッツベルゲン島で家族と暮らしている。
1938年、父はスターリンの粛清のなかで処刑された。兄がアメリカに住んでいたため、スパイの疑いをかけられたとされる。母もまもなく逮捕され、幼い息子とともにカザフスタンの収容所に送られた。マイヤはその間、伯母のスラミフィ・メッセレルに引き取られ、のちに養女となった。9歳でバレエを始め、旧帝室バレエの元バレリーナだったエリザヴェータ・ゲルトのもとで6年間学んだ。バレエを始めて1年目には、「軍縮会議」という演目で中国人の役を踊って舞台に立っている。1943年に国立モスクワ舞踊学校を卒業し、ボリショイ・バレエに入団した。
最初は群舞の一員だったが、これに不満があり、ボリショイ劇場以外の公演にも積極的に出て経験を積んだ。入団1年目の終わりごろ、欠員が出たため『くるみ割り人形』のマーシャ役に抜擢された。伯母の指導で学生時代に踊った『瀕死の白鳥』は当たり役となり、『白鳥の湖』のオデット/オディール(1947年)も最大の当たり役のひとつである。跳躍の高さ、大きく反る柔らかな背中、確かな技術、カリスマ性のすべてが高く評価された。しかし劇場上層部の待遇は良くなく、ユダヤ系だったことも災いして、1956年の国外公演には同行を許されなかった。1959年に初めて西側の舞台に登場すると、世界のバレエ界に大きな衝撃を与え、以後のバレリーナは、技術の完成度でも演技力でも、より高い水準を求められるようになった。1958年に作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚し、翌1959年にはソ連人民芸術家の称号を受けた。1960年、ガリーナ・ウラノワが引退すると、ボリショイ劇場のプリマ・バレリーナに任命された。
1967年のソ連映画『アンナ・カレーニナ』ではトヴェルスコイ公爵夫人(ヴェッツィ)を演じ、1971年にはシチェドリン作曲、自身の振付によるバレエ版『アンナ・カレーニナ』で主役を踊った。ユーリー・グリゴローヴィチ、ローラン・プティ、アルベルト・アロンソ、モーリス・ベジャールらが彼女のために作品を振り付け、アロンソの『カルメン組曲』(1967年)やベジャールの『イサドラ』(1976年)もその例である。西側へ亡命するダンサーが相次いだ時期にも、彼女は亡命を拒んだ。1980年代にはシチェドリンと海外で過ごすことが多くなり、ローマ・オペラ・バレエやスペイン国立バレエの芸術監督を務めた。ボリショイ劇場には1990年まで在籍し、70歳の誕生日にはベジャール振付の『アヴェ・マイヤ』が初演された。1994年からは自身の名を冠した国際バレエコンクールの審査員長を務めた。
日本との縁も深く、約40回訪日して数多くの公演を行った。2003年には宝塚歌劇星組公演『王家に捧ぐ歌』の振付を担当し、2006年に高松宮殿下記念世界文化賞、2011年には旭日中綬章を受けた。自伝に『闘う白鳥』がある。2015年5月2日、心臓発作のためドイツで89歳で亡くなった。遺言により、遺骨は散骨されることになった。
同じ年に亡くなった人物
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- 汪東興 (2015年没)
- ジャン=ピエール・ベルトワーズ (2015年没)
- アーウィン・キーズ (2015年没)
- マノラマ (2015年没)
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