伝記
ボリス・エフィーモヴィチ・ネムツォフは、1959年10月9日にソビエト連邦のロシア共和国のソチで生まれ、2015年2月27日にモスクワで殺害されたロシアの政治家、物理学者である。エリツィン政権で第一副首相を務め、のちにプーチンを公然と批判する野党の指導者となった。
母は医師でユダヤ人で、父はエフィーム・ネムツォフである。両親は彼が5歳のときに離婚し、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)で育った。自伝によれば、ロシア正教徒だった父方の祖母に、乳児のころに洗礼を受けさせられ、のちに自分でも正教の信者となったが、洗礼を受けたことを知ったのは何年も後だった。1976年から1981年までゴーリキー大学で物理学を学び、電波物理学部を卒業して、ゴーリキー電波物理学研究所に勤めた。1985年には物理・数学の博士号の論文を提出した。1990年まで研究員を務め、量子物理学や熱力学、音響学に関する60を超える学術論文を発表した。音響のレーザーの理論模型や、宇宙探査機用のアンテナの新しい設計も提案している。
1986年のチェルノブイリ原発事故ののち、故郷で抗議運動を組織し、地域での原子力発電所の建設を阻止した。1988年以降は環境保護運動の指導者となり、ゴーリキーに原発建設の話が持ち上がった際には、反対運動の中核を担った。1990年のロシア共和国最高会議の選挙で、ゴーリキー(のちのニジニ・ノヴゴロド)から立候補し、唯一の非共産党の候補として当選した。議会では農業改革や貿易の自由化の委員会で働き、ボリス・エリツィンに注目された。1991年8月のクーデターでは、改革派の立場からエリツィンを強く支持し、その信頼に報いて、エリツィンは同年11月にニジニ・ノヴゴロド州の行政長官に任命した。1995年12月の知事選挙で再選された。「改革の実験場」と呼ばれた大胆な市場経済の改革で、州は大きく成長し、改革は1993年に州を訪れたマーガレット・サッチャーに称賛された。1993年に連邦会議の議員に当選している。
1997年3月、エリツィンは彼を連邦政府の第一副首相に登用した。住宅建設政策と独占禁止政策の担当で、同年4月には燃料・エネルギー相も兼任した。同年12月26日に下院が「無責任な政治家」とする非難決議を可決し、1998年に第一副首相を解任された。1999年の下院選挙で当選し、2000年1月に下院副議長に選ばれたが、リベラル派の勢力は衰えていった。2003年12月の下院選挙で、右派連合は比例区の議席に必要な5パーセントの得票率に届かず、惨敗し、代表を辞任した。2004年に、ガルリ・カスパロフらと「2008年委員会」を結成した。ウクライナのオレンジ革命ではユシチェンコを支持し、のちに大統領経済顧問に任命された。2011年12月の下院選挙後は、選挙に不正があった疑いが浮上し、野党のリベラル派とともに反政府デモを行った。
2015年2月27日、ウクライナ人のモデルとモスクワ市内のレストランで食事をして帰宅する途中、モスクワ川にかかる橋の上で6発の銃撃があり、うち4発が背中に命中して死亡した。ウクライナへの軍事介入に反対するデモの呼びかけ人で、翌々日のデモを控えていた。2014年にはクリミア併合を強く非難していた。3月1日にはロシアの約10都市などで追悼デモが行われた。2017年6月には、チェチェン生まれの5人の男が、モスクワの裁判所で、1500万ルーブルと引き換えに殺害を引き受けたとして有罪とされたが、依頼した人物の身元は、公には明らかになっていない。
同じ年に亡くなった人物
- 金泳三 (2015年没)
- ジェームズ・カーネギー (第3代ファイフ公爵) (2015年没)
- Aarthi Aggarwal (2015年没)
- フロレンツァ・ミハイ (2015年没)
- ホット・ロッド・ハンドリー (2015年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・エック (1976年没)
- アガフィヤ・グルシェツカヤ (1681年没)
- アルフレート・ザールヴェヒター (1945年没)
- ユーリ・リトゥエフ (2003年没)
- エヴゲーニー・ドルマトフスキー (1994年没)