HISTORICAL PERSON · 1622年没

オスマン2世

オスマン帝国第16代皇帝。14歳で即位した。詩を好み、多くの言語を話す教養人で、外国大使には帝国で最も教養ある人物と評された。

生涯
1622年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

オスマン2世は、1604年11月3日にイスタンブールのトプカプ宮殿で生まれ、1622年5月20日に世を去ったオスマン帝国の第16代皇帝である。在位は1618年2月26日から1622年5月20日まで。父はアフメト1世、母はマフフィルズで、弟にムラト4世とイブラヒムがいる。「ゲンチ」、つまり「若い」という愛称で呼ばれた。生後11か月の頃から宮廷で育ち、母が教育に力を注いだ結果、詩を好み、アラビア語、ペルシア語、ギリシア語、ラテン語、イタリア語を話せたと伝えられるが、この語学力は後に疑問視されている。外国の大使は、皇子たちの中で最も文化的な人物の一人と見ていた。

1617年に父が崩御した際は即位できず、叔父のムスタファ1世が皇帝となった。母が早くに亡くなったか、すでに宮廷から追い出されていて、彼のために動く者がいなかったためと考えられる。1618年、ムスタファ1世がクーデターで退位し、14歳で皇帝の座に就いた。若年ながら自らの権威を打ち立てようとし、ムスタファ1世を即位させた大宰相代理を罷免し、イスラム長老エサトの影響力を削ぎ、高位ウラマーの力を抑えようとした。師父や白人宦官長を重用して、自分を中心とする党派も作ろうとした。1616年以来続いたサファヴィー朝との戦争はセラブ条約で終わらせ、この和平は1623年にサファヴィー側が破るまで続いた。

次に企てたのがポーランド遠征だった。黒海北岸のコサックは黒海を南下してアナトリア北岸を略奪し、ボスポラス海峡に侵入して郊外を襲うこともあった。コサックの背後にポーランドがいるとして、1621年に親征を宣言した。出陣に先立ち、反乱者に担がれる恐れのある弟メフメトを処刑し、反対したエサトを押し切って、第2位のウラマーであるバルカンの軍法官から処刑を是とする法意見書を得た。しかしホティンの戦いでポーランド・リトアニアに敗れ、遠征は成果なく終わり、首都では凱旋を装ったものの効果は十分でなかった。帰還後、生まれたばかりの息子オメルを事故で失った。ヴェネツィアの記録によれば、誕生の祝いに催した遠征のショーで、ポーランド兵役の役者が誤って銃を撃ち、オメルに当たったという。息子を失った彼は三日間沈黙したと伝えられる。

彼の政治基盤の弱さは、ハレムに頼れる女性の勢力がなかったことにもあった。1620年から養育係が母后の代わりに立てられたが、旧宮殿のムスタファ1世の母に対抗できなかった。有力政治家ペルデヴ・パシャの娘とエサトの娘との正式な婚姻で影響力の拡大を図ったが、臣下の娘への求婚は前代未聞で、エサトは反対した。1622年にメッカ巡礼を宣言すると、シリアでイェニチェリに代わる新軍団を創設し、カイロへ遷都するという噂が流れた。大宰相や黒人宦官長も巡礼をやめるよう説得したが、意思は固かった。ついにイェニチェリはダヴト・パシャを大宰相に担いで蜂起し、オスマン2世を殺害した。方法には諸説あるが、七塔の砦の牢内で絞殺されたと思われる。遺体から切断された右耳が母太后のもとへ送られたという。その後、ムスタファ1世が復位し、エルズルム州総督アバザ・メフメト・パシャが反乱を起こし、混乱は1628年まで続いた。イェニチェリは事態を収めるため、自分たちが擁立した大宰相カラ・ダヴト・パシャを処刑し、ムスタファ1世も再び廃位され、異母弟のムラトが後を継いだ。

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