HISTORICAL PERSON · 1653年没

アルテミジア・ジェンティレスキ

カラヴァッジオ派のイタリアの画家で、フィレンツェの美術アカデミー初の女性会員。強姦被害を訴えた裁判の公文書が残る。『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』で知名度を高め、ジェンダー研究の対象でもある。

生涯
1653年没
死亡地
イタリア共和国(ナポリ)
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキは、1593年7月8日、ローマで地位を得ていた画家オラツィオ・ジェンティレスキの第一子として生まれた。17世紀イタリアのカラヴァッジョ派の画家で、フィレンツェの絵画アカデミーにおける初の女性会員である。母は1605年に亡くなり、主に父の手で育てられた。父の工房で弟たちとともに絵を学びはじめたが、彼らよりも際立って優れた才能を見せ、デッサン、色彩、明暗法などを父から習得した。父の画法はカラヴァッジョ派の画風を明瞭に伝えるもので、彼女も深く影響を受けたが、父の比較的理想化された表現に対し、彼女は非常に自然主義的な描き方をとった。現存する最古の作品は17歳の頃の『スザンナと老人たち』(1610年)である。

1611年頃、父はアゴスティーノ・タッシとともにローマの宮殿の装飾に取りかかった。父は娘にトスカーナ派の技法を身につけさせるためタッシを教師に雇ったが、タッシは偽りの結婚の約束のもとに彼女と関係をもち、それが父の知るところとなった。激怒した父はタッシを強姦者として訴えた。裁判で彼女は身体検査や、指を痛めつける拷問を伴う取り調べを受け、タッシの友人らの証言により、最終的にタッシは無罪放免となって、彼女には「売春婦」「だらしない女」というレッテルが貼られた。この事件はのちに長く、彼女の芸術的成果を覆い隠すことになった。1612年から翌年に描かれた『ホロフェルネスの首を斬るユーディット』は、男性社会に対する彼女の心理をユダヤの女性英雄の姿を借りて表したものとする見方が現代では有力である。力強いユーディットは裁判もあって注目を集め、画家としての知名度を大きく引き上げた。

裁判から約1か月後、父は彼女の名誉を回復するため、フィレンツェの芸術家ピエール・アントニオ・シアテッシと結婚させた。夫婦はフィレンツェへ移住して子をもうけ、子の数には諸説ある。彼女は絵画アカデミーに最初の女性会員として迎えられ、著名な画家クリストファーノ・アローリらとも親交をもち、メディチ家の大公コジモ2世とクリスティナ大公妃の知己も得た。ガリレオ・ガリレイとの手紙のやりとりも現存する。1621年にはローマへ戻ったが、期待したほどの評価を得られず、1627年にヴェネツィアへ移り、1630年に絵画の市場を求めてナポリへ移住した。以後は短いロンドン行きなどを除き、ここを本拠に活動した。ナポリでは大聖堂の絵画から仕事を始め、再びユーディット、スザンナ、マグダラのマリアなどの主題を扱った。

1638年にロンドンに旅して父と再会した。父はチャールズ1世お抱えの宮廷画家となっており、宮殿の天井画を手掛けていて、彼女もこれを手伝った。1639年に父が突然亡くなった後もしばらくロンドンにとどまり、1642年のイングランド内戦の始まりとともに国を離れたと推測される。その後の消息は不明だが、1649年にはナポリに現れ、1650年の手紙にはなお画家として働いていることが記されている。没年は1652年とされる一方、最後の注文の記録は1654年1月で、確定していない。1970年代にはフェミニストによる美術史の再評価が進み、彼女はフェミニズム美術史家たちの象徴的な存在となった。

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