伝記
ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキは、1923年7月6日にポーランドのルブリン県プワーヴィ郡のクルフで、愛国的な貴族の家に生まれた軍人であり政治家である。祖父は1863年の一月蜂起に参加し、父ヴワディスワフも1920年のポーランド・ソヴィエト戦争に加わった。ワルシャワのカトリック修道会の寄宿舎で教育を受け、少年期は信心深く、たいへん優秀だったといわれる。
1939年にドイツがポーランドに侵攻すると、家族とともにリトアニアへ逃れた。リトアニアがソ連に併合されると、父の戦歴と貴族の家柄を理由に、1940年にシベリアへ追放され、約2年間、森林伐採の強制労働に従事した。このとき雪の照り返しで目を傷め、以後は色付きの眼鏡をかけるようになったとされる。父はこの抑留中に命を落とした。ヴワディスワフ・アンデルス率いる亡命政府軍への入隊は果たせず、親ソ連派のポーランド軍団に入る道を探り、1943年にリャザンの士官学校で学んだ。第2歩兵師団に偵察小隊の指揮官として配属され、ヴィスワ川での戦闘やワルシャワ解放に参加している。
1947年にポーランド労働党(1948年から統一労働者党)の党員となり、軍で昇進を重ねた。1960年に軍政治総局長、1965年に軍参謀総長となり、1968年4月から1983年11月まで国防大臣を務めた。1980年7月にグダニスクで食肉の値上げに端を発したストが起こり、造船所の工員レフ・ヴァウェンサが自主管理労働組合「連帯」を組織して委員長になる。民主化を求める声が高まるなかで、ヤルゼルスキは1981年2月に首相に就任し、同年10月からは党第一書記も兼ねた。
1981年12月13日、民主化運動とソ連の介入の危険に対処するとして、全土に戒厳令を布告した。「連帯」は非合法化され、ヴァウェンサを含む1万人以上が逮捕され、電話線は切られ、新聞の一部は発行を停止された。共産圏を除く各国から激しい非難を浴びた。1983年2月、教皇ヨハネ・パウロ2世は2度目の訪問で、直接の批判は避けながらも、「人間の顔をした社会主義」の実現を強く求めた。ヤルゼルスキは、この会見が方向転換の大きなきっかけになったと後に語っている。1983年7月に戒厳令は解除されたが、経済改革は「連帯」の支持を得られず、効果は上がらなかった。1986年7月にはすべての政治犯に特赦が行われた。
1989年2月から開かれた「円卓会議」で、上院の新設や「連帯」の合法化などで合意し、民主化への道筋をつけた。同年6月の部分的な自由選挙で「連帯」系が大勝し、8月にはタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に指名された。ヤルゼルスキは円卓会議の合意のもとで初代大統領に選ばれ、1990年12月にヴァウェンサに座を譲って引退した。2007年4月には戒厳令布告の責任を問われて起訴されたが、弁護側は、布告しなければソ連が介入したはずだと主張した。評価は大きく分かれ、のちにヴァウェンサも「裁くのは間違いだ」と述べた。晩年のヤルゼルスキはかつての宿敵ヴァウェンサと親交を深め、互いの夫妻で食事を共にすることもあったという。2014年5月25日、脳梗塞のためワルシャワの病院で死去した。90歳であった。
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