伝記
アドルフォ・スアレス・ゴンサレスは、1932年9月25日にスペインのセブレーロスで生まれ、2014年3月23日にマドリードで没した弁護士であり、政治家である。初代スアレス公爵で、1976年から1981年まで首相を務め、フランコ体制から民主主義への移行期を導いた人物として知られる。
長男として生まれ、父は共和国を支持する裁判所の代理人、母は信仰の篤いカトリックだった。家はアビラにあり、母の実家のあるセブレーロスで生まれた。4人の弟妹がいる。学業成績は芳しくなく、パーティーやスポーツ、トランプに熱中したが、母の信仰に応えて、青年期にはカトリック・アクションの団体をつくり、会長を務めた。サラマンカ大学で法学を学び、苦労して卒業した。1955年に、父が事業の醜聞を起こして家を出て、家族を支えられなくなった。同じ年の8月、アビラ県知事に就いた、オプス・デイに関係する国民運動のフェルナンド・エレロ・テヘドールと知り合い、その私設秘書になった。以後エレロ・テヘドールが政治上の後ろ盾となり、スアレスも国民運動に入った。1958年には国民運動の事務局に入り、1961年に技術室長、1967年に議員、1968年にセゴビア県知事となった。1961年にアンパロ・イリャナと結婚し、5人の子をもうけた。
1969年にスペイン放送協会の総裁に就任し、1973年まで務めた。のちの国王フアン・カルロスは、フランコの後継者に指名されており、スアレスはその宣伝の放送を多く流し、王子に好意的に受け止められた。県知事時代にもフアン・カルロスがセゴビアを訪れ、そのもてなしで関係が深まっていた。1973年に辞めて実業の世界に入ったが、1975年3月にエレロ・テヘドールが国民運動の事務総長に就くと、その副事務総長に任命された。6月に恩人が交通事故で亡くなると、副事務総長を辞任した。この年、エレロ・テヘドールの命で結成された政党の党首に就いた。1975年11月にフランコが死去すると、アリアス・ナバーロ内閣の国民運動事務総長として初入閣した。この人事は国王の意向だったと言われる。1976年3月に、内相代行を務めていたとき、ビトリアで警官隊がデモ隊に発砲して多数の死傷者が出た。通常の体制の対応であれば軍隊を派遣して戒厳令を敷くところを、そうせず、警官隊の非を認める声明を出して、短時間で解決した。この判断は、政治家としての評価を高めた。
1976年6月には、国会で政治結社法案を支持する演説を行った。政党と呼ぶかどうかは別にして、知識人にも労働者にも組織された勢力はすでに存在し、法を成立させることは、街で普通に存在していることを政治社会でも普通にするだけだ、と述べて高く評価され、政治改革法は賛成337票、反対92票で可決された。7月にアリアス・ナバーロ首相が更迭されると、次の首相に指名された。報道機関の予想に名前はなく、国民には意外な選出だった。当時の首相は、王国顧問会議が3人の候補を決め、国王が選ぶ制度で、顧問会議の議長フェルナンデス・ミランダが、国王の意中のスアレスが残るよう調整したという。首相として、フランコ時代の議会の自己解体や、共産党を含む政党の合法化を進めた。1981年2月23日に軍の一部による「23-F」のクーデターが起きたが、国王がこれを支持せずに失敗した。首相は1981年に辞任し、のちに「スアレス公爵」の称号を授けられた。2014年3月17日に呼吸器の感染症で入院して死去し、マドリードの空港の名称が、彼の名にちなんで改められた。
同じ年に亡くなった人物
- ニコライ・ロマノヴィチ・ロマノフ (2014年没)
- Svetlana Velmar-Jankovic (2014年没)
- アッキネーニ・ナゲシュワラ・ラオ (2014年没)
- ジミー・ジョーンズ (2014年没)
- マン・ハロン・モニス (2014年没)