伝記
イサゴラスは、紀元前6世紀末のアテナイの貴族で、ティサンドロスの子である。僭主ヒッピアスの支配のあいだもアテナイにとどまり続け、ヒッピアスが倒されたのちに、同じ貴族のクレイステネスと権力を争った人物として知られる。
出自の詳細は分かっていない。一族がゼウス・カリオスの祭祀を代々受け継いでいたことは伝わるが、この神がテッサリアやボイオティアで信仰されたため、ディアクリア地方の出身ではないかとする説がある。僭主追放の直後には彼が優勢だったが、クレイステネスが民衆の心をつかんだ。僭主政の終結後の争いは、はじめは貴族どうしのものにすぎず、寡頭政をめざしつつ、民衆の台頭をどの程度認めるかが違いだったとも説明される。イサゴラスはより保守的な貴族派を、クレイステネスはより改革的な派を代表したと見られる。
紀元前508年、イサゴラスは筆頭アルコン(名祖アルコン)に選ばれた。しかしクレイステネスは、住民の多数の支持を得てこれに対抗した。そこでイサゴラスは、かつて自分の客人として厚くもてなしたスパルタ王クレオメネス1世に助けを求めた。ヘロドトスによれば、クレオメネスはイサゴラスの妻と通じていたとも伝えられる。紀元前507年、イサゴラスはクレオメネスの助けを得て、アルクマイオン家の汚れを口実に、クレイステネスと一族を追放した。このとき七百家族が追放されたともいわれる。さらにクレイステネスの設けた評議会に代えて、三百人の寡頭派による評議会を置こうとしたとされる。
これに対しクレイステネスの支持者と一般市民が蜂起し、イサゴラスとスパルタ人をアクロポリスに二日間閉じこめた。三日目に休戦が成り、クレオメネスとイサゴラスは脱出を許されたが、イサゴラスの支持者三百人は処刑された。のちクレオメネスはイサゴラスを連れ戻して僭主にしようとし、紀元前506年にはエレウシスまで進んだ。この占領は人々に深い印象を残したという。クレオメネスが退けられたのち、民会の決議はイサゴラスとその支持者に死刑を宣告し、財産を国有とし、家屋を取り壊すよう命じたと伝わる。
クレイステネスは都に戻り、改革を進めてアテナイの民主政の礎を築いた。一方、イサゴラスのその後の運命は分かっていない。
同じ年に亡くなった人物
- Aspelta (紀元前600)
- Arcesilaus II of Cyrene (紀元前600)
- 摩耶夫人 (紀元前 600年(推定))
- ロドピス (紀元前 600年(推定))
- Charondas (紀元前600)
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