伝記
ジルル・ラーマンは、1929年3月9日に生まれ、2013年3月20日に没したバングラデシュの政治家で、2009年から亡くなるまで同国の大統領を務めた。アワミ連盟の高級幹部でもあった。大統領の代数は第17代とも第14代ともいわれる。現職のまま亡くなったバングラデシュの三人目の大統領であり、暗殺ではなく自然な死因で亡くなった最初の人物でもある。
キショレガンジ県バイラブ郡の、母方の実家で生まれた。父のメヘル・アリ・ミアンは弁護士で、ミメンシング地域委員会の委員長と、県委員会の委員を務めた大物だった。身近な小学校で学び、バイラブの高校を経て、1947年にダッカの大学で中等課程を修了した。のちにダッカ大学で歴史学の修士号とも博士号ともいわれる学位と、法学士号を取得した。
1947年のシレットの住民投票の運動で、ムジブル・ラフマンと親しくなった。1952年のベンガル語運動に参加し、同年2月19日には、ダッカ大学で学生集会を開いた。1953年に大学を追放されたが、学生の抗議により撤回された。1954年の選挙では、ミメンシング地域の選挙運営委員会の副委員長を務めた。1956年にはキショレガンジ地区のアワミ連盟支部の長に選ばれた。1970年のパキスタン総選挙では、アワミ連盟から立候補して国会議員に当選した。バングラデシュ独立戦争中は、亡命政府の中で積極的に活動し、機関紙に寄稿した。戦争の終結後の1972年にアワミ連盟の書記長となり、1973年の総選挙でも国会議員に選ばれ、1974年に再び書記長に選ばれた。ムジブル・ラフマン元大統領の暗殺事件の後には、軍事政権に逮捕されて、4年間を獄中で過ごした。1986年にも国会議員に選ばれたが、その年に投獄された。
アワミ連盟の政権下の1996年から2001年には、地方行政、農村開発、協同組合の大臣を務めた。2004年のダッカでの手榴弾によるテロ事件では、妻のイビー・ラーマンが殺害された。彼女もアワミ連盟の政治家で、党の女性問題を担当していた。2006年から2008年の政治危機の間は、党首シェイク・ハシナが投獄されたため、党の臨時の総裁を務めた。2009年2月の大統領選挙に、議会で圧倒的多数を占めるアワミ連盟から立候補し、2月11日に選挙管理委員会が無投票での当選を発表して、翌12日に大統領に就任した。国軍の最高司令官でもあり、軍の近代化を訴えた。2013年に呼吸器系の病気のためシンガポールの病院に入院し、3月20日に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・リチャードソン (物理学者) (2013年没)
- ベシク・クドゥホフ (2013年没)
- ナーディル・アフォンソ (2013年没)
- ルー・リード (2013年没)
- ジェイ・ロビンソン (2013年没)
同じ地域に関係する人物
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- シドニー・ブレナー (2019年没)
- David Marshall (1995年没)
- アリー・アラタス (2008年没)
- イブラヒム・ナシル (2008年没)